「祖師方が衆生に願うもの」



知るべし三帰(さんき)功徳(くどく)

()最尊最上深甚不可思議(さいそんさいじょうじんじんふかしぎ)なりということ

世尊既(せそんすで)証明(しょうみょう)しまします

衆生当(しゅじょうまさ)信受(しんじゅ)すべし



お釈迦様は相手の職業、人柄、理解力などを踏まえながら、対機(たいき)(相手)に応じた形で教えを説かれたと伝えられています。それを「対機説法(たいきせっぽう)」と申しますが、たとえば、大工さんには大工の仕事を用いて、教えを説いたというのです。そうしたすべてを対機に合わせて説かれたのが仏教ですから、自然と様々な側面を有し、誰でも救うことができるものとなったのです。まさに仏教はオールマイティで、尊く、深い教えなのです!
そうした「仏教(法)を含む三宝に帰依する功徳もまた、尊く不可思議で深いものである」ことを世尊(お釈迦様)が既に証明してくださっていると道元禅師様が仰っています。それが「知るべし、三帰の功徳、其れ最尊最上深甚不可思議なりということ世尊既に証明しまします」という箇所です。

次に「衆生当に信受すべし」とあります。冒頭の「知るべし」もそうですが、「べし」という助動詞がつかわれていることに、教えの深さを感じずにはいられません。「べし」という助動詞には「〜しなさい」という命令の意味と、「〜してほしい」という願いの意味があります。私は今回使われている2つの「べし」にはお釈迦様や道元禅師様が我々衆生に対して、三宝帰依の日常を送ることを願うと共に、その功徳を信受(信じて受け入れる)し続け、少しでも仏様のお悟りに近づくことを強く願っているように感じるのです。「命令」と「願い」―それは祖師方から我々に向けられた強い願いなのです。そして、その願いは時間と空間を超えて、常にその時代を生きる人々に発せられ続けているのです。

道元禅師様は人々が三宝に帰依することができれば、必ずや救われ、心安らかに生きていくことができるし、戒(仏様の生き方)が身につくとおっしゃっているのです。戒に関しては、次回から具体的に説かれていきますが、今回の箇所は戒を説く上での橋渡し的な役目を果たしていると同時に、様々な苦しみを抱える私たち現代人が三宝帰依(三宝を自分の支えとして生きていく)できれば、今の苦悩から解放され、苦しみを和らげることができるというのです。今回の箇所は第3章の前半部における中心テーマであった「三宝帰依」の総まとめとなる部分です。そして、三宝帰依の日常を過ごすことは、祖師方からの我々現代人に対する強い願いであったことを今一度、押さえておきたいと思います。