第27回  「物事の本質を捉える」


(あに)神通(じんつう)修証(しゅしょう)()能く(よく)知る(しる)所とせんや

声色(しょうしき)(そと)威儀(いいぎ)たるべし

(なんぞ)知見(ちけん)(さき)()(そく)()ざる(しゃ)ならんや

前回、道元禅師様の師・天童如浄(てんどうにょじょう)禅師様のエピソードをご紹介させていただきました。それは一日のほとんどを坐禅三昧で過ごし、眠りこける修行僧は拳やスリッパで打つなどして、眠りから目覚めさせ、坐禅に集中させるという厳しい修行でした。これは現代の目から見れば、“パワハラ”と捉える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その行為の背景にある如浄禅師様の御心に触れてみると、自身の仏道修行者としての自覚に欠けていたことに気づかされ、パワハラと断じ切るのが難しくなるような気がいたします。

暴力や暴言に対する世間の目は厳しくなっていますが、それは、相手を思いやることなく、自分の感情の赴くがままに、そうした行為を発していることが一つの原因になっているように思います。もちろん、暴力や暴言は肯定できませんが、その是非を問うならば、そうした“悪しき行いとされているもの”の背景に存在するものにも目を向けながら、物事を多面的に捉えていかなくてはならないと思います。そうやって考えていくと、物事の是非というのは、そう簡単に断じられるものではないことに気づかされます。ある一定の範囲までは是非で判断できても、それを超えて、さらに「本質」に迫ってみると、是非で判断すること自体、妥当かどうかが疑わしくなってくるような気がします。

そのことを踏まえ、今回の一句を味わてみましょう。お釈迦様から脈々と伝わる坐禅修行に意義や価値を見出し、自分たちの宗派の根幹に据え置く道元禅師様にとって、「日々の坐禅修行の積み重ね」が私たちの人生に奥行と幅をもたらし、深みを与えていくとお示しになっています。「神通修証の能く知る所とする」というのは、坐禅を神通(簡単に計り知ることのできない不思議な力)や修証(悟り)だけで限定的に解釈すべきものではなく、様々な捉われから脱した自由無碍な捉え方をすべきであるということです。「声色の外の威儀たるべし」や「知見の前の軌則」が意味するのはそうした状態です。

ともすれば、私たちは是非を判断する過程で、自分の六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身体・心)で捉えるもの(六境(ろっきょう))だけで全てを判断してしまいがちです。それが「知見」ということなのですが、本当はそこで止まらず、その先にある本質に迫る捉え方をすべきなのです。それが「知見の前の軌則」の意味するところです。物事の本質は私たちの六根で体得できる範囲をはるかに超えたところに存在していています。そのことを押さえ、簡単に是非や白黒を決めつけないようにしていくことを、坐禅のみ教えから体得していきたいものです。