第29回 「坐禅と人権 上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)(えら)ばず―

(しか)れば則ち上智下(じょうちか)()を論ぜず

利人鈍者(りじんどんしゃ)(えら)ぶこと(なか)

専一(せんいつ)功夫(くふう)せば、正に()れ弁道なり

物事の本質というのは、表面に顕れている情報だけでは判断したり、見抜いたりできるものではありません。それは万事に当てはまります。自分の目や耳に映るものだけに捉われ、それが正しく絶対なのだと思っているようではいけません。周囲の状況を広く見渡し、あらゆる存在の声なき声にまでもにもしっかりと耳を傾けながら、総合的に判断していくことで、本質が見えてくるようになるのです。

ソフトボール部に所属する二人の中学生の少女がいました。自尊感情が低いがために、自分に自信を持てず、中々、技術が上達していかない先輩(2年生)と、何事にも前向きで、積極的に取り組み、もはや先輩も追い越しそうな勢いの後輩(1年生)。それに対して、周囲は上達の早い後輩の少女をついつい誉めて、盛り上げようとしました。それは後輩の少女に対する対応だけを考えれば、何の問題もないように見受けられますが、そんな場面を目の当たりにしている先輩の少女は、後輩と比較されることに傷つき、どんどん自信を失い、自尊感情がさらに低くなっていったのです。その感情が暴言等の問題行動となって先輩少女からにじみ出てきたとき、周囲の大人はハッと気づきました。後輩少女を誉めることが、先輩少女を傷つけていたことに。大人たちは2人の少女に対して、どんな対応がベストなのかを考え、先輩の少女に自信を持ってソフトボールに取り組むことで、積極的に生きる力を身につけさせたいと願うと共に、後輩の少女を先輩の少女が見ている前で過剰に誉めるのではなく、ごく普通に認めつつ、双方の努力を認め、いいところ探しをするようにしたのです。

その結果がどうなっていくのかは、これからのハッキリしてくるのでしょうが、少女たちの周囲の大人がハッとしたのは、自分たちが今回の一句において道元禅師様が否定しているような「上智下愚を論じ、利人鈍者を選んでいた」ことに気づかされたからです。大人たちは決して、二人の少女を差別する気がありませんでした。しかし、いつしか、プラス思考でどんどん成長していく後輩少女の表面的な情報ばかりに目を奪われ、そこに価値を見出すようになっていたのです。そのために知らず知らずのうちに先輩少女の努力を認めず、苦悩にも気づかなくなっていたのです。

大切なことは「弁道功夫」することであると道元禅師様はおっしゃっています。弁道も功夫も、ひたすらに仏道修行に励むことを意味しています。これは坐禅(仏道)の世界は、賢いも愚かも鈍いも、そうした表面的な個人の特徴など、一切、問題としないことの表明です。いろんな存在があっていいのです。その一人一人が、ひたすらに仏道修行に邁進しているかどうかが大切であり、個々の“精進”が重要視される世界なのです。

仕事の処理能力だとか、他者とのコミュニケーション能力といった、見た目に分かりやすいものだけで人を判断しているような組織では、組織の中で不要とされた人は、弱者として排除され、強者だけが残っていくという、差別的な組織になっていくでしょう。それでは組織の中の全ての人が自分の能力をいかんなく発揮することなどできません。一人一人が異なった能力を持っています。よい組織はそのことを熟知していて、個々の能力を伸ばそうとします。それは「上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ばない組織」です。そこでは組織に属するものの得意分野が発揮できるようなシステムが作られ、働くことに喜びを感じ、組織運営への貢献が実感できるのです。どうか、個人個人の本質を見抜き、表面的な能力だけで差別的な対応をしないような周囲との関わりを、道元禅師様の坐禅のみ教えを通じて、体得していきたいものです。