第18回 「大夜念誦(たいやねんじゅ)@―念誦文に込められた願い−

(せつ)(おもんみ)れば、生死交謝(しょうじきょうじゃ)寒暑互(かんじょたが)いに(うつ)る。
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(きた)るや電長空(でんちょうくう)に激し、其の去るや波大海(なみだいかい)(とどま)る。
是日
(このひ)
、即ち新帰元(戒名)有って、生縁巳(しょうえんすで)()きて大命俄(だいめいにわ)かに落つ。
諸行
(しょぎょう)
無常(むじょう)なるを(さと)って寂滅(じゃくめつ)(もっ)(らく)()す。

入棺諷経(にゅうかんふぎん)(棺に故人様をお納めして、読経供養させていただくこと)に引き続き、「大夜念誦(たいやねんじゅ)」に入ります。「大夜(逮夜)」とは、「再び帰らぬ夜」を意味し、葬祭の前夜(死後の翌日の夜という説もあり)を指します。そうした特別の意味を有するひとときにおいて、棺を前に仏法僧の三宝の名を念じるというのが、「大夜念誦」です。「念誦」というのは、「念仏」のことで、三宝の名を念じ称えることで、故人様を仏として念じながら、成仏を願うのです。尚、「大夜念誦」は、故人様の棺の前で念誦することから、「棺前念誦(かんぜんねんじゅ)」と呼ばれることもあります。

「大夜念誦」は2つの構成に分かれています。一つは「念誦文」で、もう一つは「念誦」です。「念誦文」は念誦の前にお唱えするもので、念誦の意義が述べられたものです。その内容に触れながら、葬祭執行者である僧侶方が棺前にて何を願い、何を説いているのかを味わってみたいと思います。尚、解説の便宜上、「念誦文」は前半と後半に分けて解説させていただきます。(念誦文・前半「第18回」、後半「第19回」、念誦「第20回」の予定)

まず、「切に以れば」という始まりに触れておきましょう。意味的には、「よくよく思いを巡らせてみれば」という程度に捉えておけば宜しいかと思いますが、その根底には、身心を調え、でき得る限り仏のものの見方を意識しながら、この世の道理にしっかりと目を向けていくという姿勢があることを押さえておきたいものです。それは、まさに「仏眼(ぶつがん)を以て物事を捉えていく」という、「正見(しょうけん)」というべきものです。

そうした「正見」を意識しながら、この世の道理に向き合ってみると、「生死交謝し寒暑互いに遷る」とあるように、いのちあるものは、生と死が互いに交わり合うかの如く、季節が春夏秋冬と移り変わっていくが如く、変化を繰り返していくものであるとあります。これが仏教の説く「諸行無常」です。出会いがあれば別れがあるように、いのちあるものは、必ずや死を迎えるのです。「電長空に激し」とあるように、「大空に突如輝いた稲妻のように生まれた」いのちも、「波大海に停る」、「波がサッと引く」ように消えていく、はかないものであるというのです。

そうした「諸行無常」の道理に従って、この日、この世に生存できる因縁が消滅した(生縁巳に盡きて大命俄かに落つ)故人様は、「諸行の無常なるを了って寂滅を以て楽と為す」とあるように、「諸行無常の道理を理解・を体得し、三毒煩悩を断ち切って、悟りの境地に入り、心静かなる状態になった」というのです。静寂なる悟りの境地を体得することを「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と申しますが、これに「諸行無常」と、「諸法無我(しょほうむが)(万事が自分の思うようにはならないということ)」を加え、「三法印(さんぼういん)」と申します。これは、仏教が仏教であることを指し示すもので、いわば、仏教の特徴とも言うべきものです。

今、故人様は「三法印」が指し示すこの世の道理に直面しています。それは、遺族様にとって、悲しく、受け入れがたい現実です。たとえてみるならば、あたかも穏やかな心の中に、荒波が生じるがごとき状態です。そんな心を少しでも穏やかに調え、「涅槃寂静」を願うのが、「念誦文」です。大切な人を失った悲しみは、そう簡単には消せるものではありません。たとえ時間がかかってもいいから、「諸行無常」・「諸法無我」という現実を受け止め、心穏やかに過ごせる日が訪れることを願い、「念誦文」は読まれるのです。