第30回 「分別からの自由 ―故・板橋興宗禅師様のみ教え―

修証自(しゅしょうおの)ずから染汚(ぜんな)せず

趣向更(しゅこうさら)に是れ平常(びょうじょう)なるものなり


―令和2年7月5日―
福井県・武生市にある御誕生寺(ごたんじょうじ)のご住職で、大本山總持寺(横浜市鶴見区)の元貫主・板橋興宗(いたばしこうしゅう)禅師様が93歳にてご遷化(せんげ)、お亡くなりになりました。まさに曹洞宗門を代表する禅僧のお一人である板橋禅師様の元で、今から18年前の2002年(平成14年)、当時、駆け出しの修行僧であった私は、「行者(あんじゃ)(老師の付き人)」というお役をいただき、修行させていただきました。ほんの3か月間という短い期間でしたが、禅師様からは実に多くのことを教えていただきました。行者として、どういう心構えで老師に接すればいいのか、どんなことに留意し、何に注意を払いながら過ごすことが求められるか、禅師様から学ばせていただいたことは数知れず、そのみ教えが、今も私の中に息づいています。

今回は、そんな板橋禅師様から教えていただいた「坐禅に関するみ教え」をご紹介させていただきたいと思います。それは坐禅中に考え事をしてもいいかどうかに対する、禅師様のお言葉で、坐禅について、長年、解決の糸口がつかめぬままでいた私の疑問を見事に解決させてくださったみ教えでもあります。

坐禅に励む者の頭の中は、「心意識(しんいしき)の運転を()め、念想観(ねんそうかん)測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ること(なか)れ。」と道元禅師様がおっしゃるように、決して、思考が止まっているわけではありません。当人は生きているわけですから、頭の中には様々な思考が沸き起こっています。そのこと自体、問題視する必要はないのですが、頭の中に沸き起こってくる思想を気にして、そこで立ち止まるようなことがないようにすることを意識しておきたいものです。それは「自然のままに任せる」ということで、思考を強引に停止させようとするのではなく、沸き起こるがままにして、我が身を委ねていくということです。

ですから、坐禅中に頭の中を空っぽにして、何も考えないようにする必要はないのです。そうした状態を世間一般に「無になる」と表現することが多いようで、18年前の私自身、「無になる」ということに気を取られ、必死になって、毎朝の坐禅の際には思考を停止させようとしていました。しかし、中々、思考を止めることができず、どうすればいいのか、随分と悩んだことが思い出されます。

そうした悩みを抱えたまま、ご本山での修行を終えて、数年経ったある日、板橋禅師様のご講話を拝聴させていただく機会がございました。その際に、板橋禅師様に私同様の疑問を抱えながら、坐禅をしているという方がいらっしゃて、「どうすれば坐禅中に無になれるのか、何も考えずに過せるのか。」という質問をなさいました。

すると、板橋禅師様はにっこりと微笑みながら、「坐禅中に何も考えないということはあり得ません。人間が思考を停止するのは、死んだときです。生きているうちは、頭の中に沸き起こってくるものは、沸き起こってくるがままに、自然に任せておけばいい。」禅師様の口調は穏やかながらも、長年に渡り、坐禅と共に生きてこられた方が醸し出す力強さが感じられました。このときに私が体験した「長い長いトンネルから抜け出し、眼下に明るく広大な景色が広がっているのを目の当たりにしたような感覚」は生涯忘れることができません。これが長年抱えていた疑問が解決する瞬間なのでしょう。そして、こういう感覚が「悟り」なのかもしれません。

「無」に対して、「有」という概念があるように、「是と非」だとか、「善と悪」といった対立概念は我々の周囲に数多存在します。私たちは、そうした対立概念について、そのいずれか一方だけに価値を認めてしまうから、偏った捉え方をすることになるのです。ところが、それでは、物事の本質になど、気づけるはずがありません。上記のお話は、“無”に捉われるがあまり、道元禅師様がお示しになっている坐禅の本質に気づかぬままでいた者が、板橋禅師様から、その本質を教えていただいたということなのです。

今回の一句に「染汚」という言葉が使われております。これは、個人的見解で分別したものに対して、どちらか一方に捉われるような、偏った関わり方を意味するものです。「修証(身を修めることと悟りを得ること)の分別なきところの趣向(行先)は、平常である。」と道元禅師様はおっしゃっています。分別から自由になった先には、平常(私たちの日常)があるというのです。すなわち、悟りは決して、非日常的な特別のことではなく、我々の日常の中で、坐禅をやって、やって、やり続けていく中に、いつしか姿を現すときがやって来ると道元禅師様はおっしゃっているのです。

本質を見失わせ、真実から遠ざかってしまう分別の捉え方を慎み、万事に価値を見出すようなものの見方・考え方を坐禅を通じて、体得していきたいものです。