第31回 「家風を信じて」
凡そ夫れ自界他方、西天東地、
等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。
唯打坐を務めて兀地に礙えらる。
万別千差と謂うと雖も、祇管に参禅弁道すべし。
何ぞ自家の坐牀を抛却して、
謾りに他国の塵境に去来せん。
仏教は今から約2600年前、インドの国で、お釈迦様が坐禅を通じてお悟りを得たことによって生まれました。その後、達磨大師様によって、インドから中国に伝わり、日本へと伝わりました。そして、今や、仏教は、欧米諸国にも広まっております。そんな仏教と共に、坐禅もインドから中国、日本へと伝わり、欧米諸国にまで広がりました。
こうして自界他方(自分の世界とそれ以外の世界)、西天東地(インド・中国)へと伝わってきた仏教も坐禅も「等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす」と道元禅師様がおっしゃるように、共通に「ほとけのしるし」を擅(占有)してきたものであります。道元禅師様が「一」を“もっぱら”という読んいらっしゃることに奥深さを感じます。そもそも、「一」には、“もっぱら”という意味があるのですが、一般的な“ひとつ”という意味も加えて味わっていくと、自界他方・西天東地、各所に伝わる仏法が同一のものであることが、強調されているように思えてくるのです。これは修証義の言葉を使えば、「単伝」ということなのでしょうが、たとえ、この先、場所が変わっても、コップの水を別のコップにそのまま移すが如く、変わることなく伝わっていくということです。
ちなみに、「宗風」とは、「一宗の家風」ということですから、我が宗門が釈尊から伝わるみ教えとして、大切にしている坐禅のことを指しているのは言うまでもありません。そこでは、日常生活の中で起こるものをあれこれ持ち込まず、自然のままに、為すがままに我が身を坐禅に委ねること(坐禅に帰依すること)が大切です。「兀地に礙えらる」とあります。宗風の坐禅は、まるで大山のごとく不動で、動かない修行であり、そんな坐禅が単伝され、宗風となったのです。
自界他方、西天東地、どこを見ても千差万別というように、様々ないのちが生かされているがゆえに、様々な出来事が起こります。お釈迦様が「衆縁和合」とおっしゃったように、全てのいのちが関わり合い、つながり合って生かされていますので、我々は自分たちの周囲で起こる出来事の影響を多かれ少なかれ受けることになります。しかし、どんな出来事が起ころうとも、お釈迦様から脈々と伝わる「坐禅の家風」を受け継ぐ者ならば、ただひたすらに坐禅を行じていけばいいのです。それが「万別千差と謂うと雖も、衹管に参禅弁道すべし」の意味するところです。
そして、「自家の坐牀を抛却して、謾に他国の塵境に去来せん。」とあります。自分の生まれた故郷を離れ、他国で暮らすようなことをしなくてもよいということですが、これは他に道を求めなくてもよいということです。お釈迦様と出会い、坐禅とのご縁をいただいたのならば、その家風を信じ、我が身を委ねていけばいいのです。なぜならば、坐禅という家風が今日まで伝わっているのは、ひとえに正しかったからに他ならないからです。邪道だったならば、坐禅の歴史は早々に途切れていたことでしょう。自界他方・西天東地に広まることもなかったはずです。これまでの長い歴史の中で、多くの人が信じ、救われてきた道だったことを長い歴史が証明しています。どうか他家の門を叩いて、教えを請うようなマネをすることなく、自分たちの家風をを信じ、坐禅によって身心を調えながら、少しでも仏に近づいていきたいものです。