「開山忌」と「報恩講」

私共が住む金沢市内のお寺では、11月と言えば、「開山忌」と「報恩講」が営まれると相場が決まっているようです。

修証義に「人身得(にんしんう)ること(かた)し、仏法()うこと(まれ)なり」とあります。私たちが「今という時間」、「ここという場所」に生かされているのは決して、当たり前のことではありません。仏様とご縁をいただいたことも然りです。そのことを説いた一句です。

―私たちとこの人間世界とのご縁を結んでくださったのは誰か―?

父と母、2人のご先祖様です。そして、そのご先祖様にも同じように両親が存在しています。1代遡って2人の先祖、2代遡って4人の先祖、ほんの5代、百数十年ほど遡っただけでも、何十人、何百人のご先祖様の存在があることに気づかされます。そして、そうしたご先祖様と自分とのつながりの中で、誰か一人でも欠けていたとすれば、今の自分は存在しないのです。だから、「人身得ること難し」なのであり、そうしたご先祖様の恩に報いることを誓い、少しでもみ仏のみ教えに従って生きていく機会となるのが「報恩講」なのです。


私たちと一佛両祖様(お釈迦様・道元禅師様・瑩山(けいざん)禅師様)とのご縁を結んでくださったのは誰でしょうか。それがお寺のご開山様(お寺をお開きになった初代住職)や歴代の方丈様です。そのおかげで、私たちは人間としての正しい生き方が説かれた仏法とのご縁を結ぶことができたのです。そうしたご開山様や歴代方丈様方のご恩に報いるべく営まれるのが「開山忌」です。

「開山忌」も「報恩講」も報恩の対象は違えども、現在を起点として、過去をみ仏のみ教えに従って、どのように捉えていくかと考えたとき、「報恩に生きる」という結論に到達するという点では同じです。

では、
同じ視点から未来を捉えていくとき、どんな今の過ごし方が求められるのでしょうか?

                                           
 【第2回に続く】




「峩山園法要」にて
(H30.6.23)