第20回「邪見(じゃけん)か?正見(しょうけん)か??」 


(しか)あらざれば多く(あやまりて邪見(じゃけん)()つるなり
(ただ)邪見に()つるのみに非ず
悪道
(あくどう)
に墜ちて長時(ちょうじ)の苦を()



−「因果の道理」−
それは今の現状には過去からの原因があり、今の行いは未来に迎えであろう結果につながっていくということでした。

−「三時業」―
それは未来における結果の出方を時間軸から捉えたものでした。結果が出るのは、明日なのか、自分の死後なのか、それとも更に先のことなのか・・・?いずれにしろ、自分がやったことに対して、必ずや結果が訪れるということです。

過去という原因があって今があり、今という時間があって未来という結果を生み出すということを、お釈迦様のみ教えを学んでいく上で、まず押さえておく必要があると道元禅師様はおっしゃいます。

ところが、私たち人間は自分の尺度で物事を捉えようとしてしまいます。人の話に耳を傾けず、自分の考えを押し通そうとする人がいます。“我が道を行く”ということなのでしょうが、彼らはお釈迦様どころか、周囲の人にさえも照準を合わせようとせず、自分に照準を合わせ、自分の尺度だけで物事を解釈しようとしているのです。

そんな“我が道を行く”という姿勢だけで生きていくことが、どういう結果を招くのでしょうか・・・?道元禅師様は、そうした生き方が恐ろしい結果を招くだろうとお示しになっています。

今回の一句の中に「邪見」という言葉が出ております。「邪見」というのは誤ったものの見方です。なぜ「邪見」を引き起こすのかと言えば、物事に関わるとき、自分の見方だけで見ようとするからです。

それに対して、お釈迦様は「正見」を説いていらっしゃいます。これは物事の道理に従ったものの見方、自分に都合のいい見方をせず、事実を事実のままに捉える見方です。

ある会議でのお話です。Mさんは会議の議題に関する資料を時間をかけて一生懸命、準備したのですが、残念なことに資料は完全否定されてしまいました。会議の議事録作成を担当したKさんは事実に随い、会議の流れを克明に記録しました。するとMさんは自分が否定されている箇所はKさんの聞き違いだといわんばかりに訂正を要求してきました。Kさんは「事実は曲げられない」とAさんの要求を退けました。Aさんが日頃から自分にとって都合の悪い事実から目を背けようとする生き方が周囲から完全否定されるような資料の提示につながったとKさんは分析しました。そんなKさんは同僚からも信頼され、一目置かれる存在だそうです。自分にとって不都合なことや辛く悲しいことに直面することがあります。そのとき、自分の心が安心することだけを願い、事実から目を背けるのではなく、受け入れたくないことでも少しでも受け止められるようにしていくのが「正見」なのです。

「正見」はお釈迦様がお示しになられた「八正道」の一つです。「八正道」の全てを語るには紙面が足りないので、省略させていただきますが、道理や事実に対して、「俺が」、「私が」といった私見を一切交えずに関わっていくことです。先のAさんとKさんの例にもあるように、「邪見」の持ち主は周囲からの信頼を失います。それに対して、「正見」の実践者は誰からも慕われ、厚い信頼を寄せられるのです。そして、「正見」は人と「安楽の世界」とのご縁をつないでいきます。逆に「邪見」は人を「苦しみの世界」へと向かわせます。

「周囲の声に耳を傾けず、我が道を行くか?」―
「事実をありのままに受け止め、周囲の声にも耳を傾けながら生きていくか?」―
どちらの道を歩むも、「あなた次第」ということになるでしょう。しかし、皆が幸せになることを願うのであれば、進む道は一つです。「正見」して、「安楽の世界」を目指す道。これこそが、人として生きていくご縁をいただいた我々が、自分たちの生き方を明確にしていく―「生を明らめる」ことになるのです。