第20回 「坐禅中の思考 ―“不思量底(ふしりょうてい)”を思量(しりょう)する―」


左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、
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不思量底(ふしりょうてい)思量(しりょう)せよ。


冒頭に「左右揺振(さゆうようしん)」とあります。これは坐蒲上に座っている身体を安定させるべく、身体を左右に揺らして、動かないようにさせていくことです。 道元禅師様が兀兀(ごつごつ)として坐定とおっしゃるくらいですから、身体をゆっくりと左右に揺らしつつ、「ここだ!」という一点を掴んだら、そこで心も身体を安定させ、どんなことがあっても動かさないということで捉えればよろしいかと思います。それは、〝確固たる決意〟という心構えであり、 大山(たいざん)のごとく不動という姿です。

呼吸が調い、心と身体が安定して、いよいよ坐禅の形ができあがったならば、「()不思量底(ふしりょうてい)思量(しりょう)せよ」と道元禅師様はおっしゃいます。

「不思量」というのは、「思慮分別しないこと」を意味していますが、自分の頭を働かせて色々と考えごとをしないようにすることです。「底」は「~という」とか「~のような」というくらいに解釈しておきましょう。ということは、「不思量底」は「坐禅をしている最中は思慮分別を巡らすようなことをしない」ということになります。

しかし、我々人間は考えごとをする生き物です。生きているとはそういうことだとも言えるでしょう。ですから、頭の働きを停止させ、何も考えずに過ごすことは至難の業です。それなのに、「不思量底」という言葉からは、まるで道元禅師様が坐禅中は思考を停止させよとおっしゃっているようにも思えてしまいます。

実は道元禅師様は思考停止を求めているのではありません。生きているのだから、坐禅中であれ、何か考えてしまうのは当然です。ただ、「坐禅中はそうした湧き上がってくる思考に捉われないように」と―。それが道元禅師様のおっしゃる「不思量底」なのです。頭の中に浮かび上がる思考にいちいち立ち止まって、何かを考えてしまえば、ただ考え事をしているだけに過ぎず、身心が調わないばかりか、「安楽の法門」に入ることさえできないのです。あたかもハエを追い払うが如く、頭の中の考えを手放し、兀兀(ごつごつ)と坐るのが「不思量底」の説くところなのです。

ここで押さえておくべきポイントは、自分ではなく、坐禅(仏法)に標準を合わせることです。自分と坐禅(仏法)を天秤にかけてみたとき、正しいのは自分ではなく、坐禅(仏法)の方であり、そちらに我が身を委ねていくということです。それが「参禅(さんぜん)」ということなのです。