第20回 「受戒 −戒と共に生きるということ−」



受戒(じゅかい)するが如きは三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)所証(しょしょう)なる
阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐(あのくたらさんみゃくさんぼだいこんごうふえ)仏果(ぶっか)(しょう)するなり



様々な仏様が自らの生き方としてきた“戒”―今回の冒頭にある「受戒」とは、「戒を受ける」ということです。すなわち、私たちが仏様と同じように、戒をいただき、戒を受持(じゅじ)しながら日々を過ごすということです。そうすることで、仏の位に入ることができるということです。

そんな「受戒するということはどういうことなのか?」というのが今回の内容です。

道元禅師様は『受戒するということは「三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐の仏果を証することである」』と説かれます。

「三世」とは「過去・現在・未来」ということです。すなわち、“いつの時代も”ということです。そんないつの時代の仏様たちも「所証」(証明)してきたものとは、いったい何だったのでしょうか・・・?

どの仏様たちも自ら戒と共に生きてきました。そして、それによって、仏の道を完成させてきました。それが後世に伝わり、仏教の2600年に及ぶ長い歴史が成立するのですが、その長い歴史の中には、いつの時代の仏様も自らの生き様で「戒を(たも)ちながら仏の道を歩めば、人はいつか必ず悟りに近づける」ということを証明してこられたように思います。

経典は「阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐」へとつながっていきます。この言葉は、「仏教語」らしく難解な漢字が多様されています。ここでは少しでもわかりやすく理解していくためにも、「阿耨多羅三貌三菩提」と「金剛不懐」とに分けて解釈していった

まず「阿耨多羅三貌三菩提」ですが、一言で申し上げるならば「悟り」ということです。迷いや苦悩から離れた無上なる仏の境地です。

次に「金剛不壊」とあります。金剛とは金剛石のことで、ダイヤモンドです。ダイヤモンドは簡単には壊せない堅さと万物を破壊しようとする力を持った堅い石です。

そうしたダイヤモンドになぞらえて、仏の悟りは「何にも敗壊することなく堅固不動である」というのが「阿耨多羅三貌三菩提金剛不懐」の意味するところです。

そして、「仏果を証するなり」へとつながっていくのですが、仏果とは「修行の結果として、到達できる仏陀の位」です。

多くの仏様は受戒して、自ら戒と共に生きてこられた結果、簡単に壊れることのない確固たる仏の悟りに近づくことができたというのです。それはどの仏様もそうであったということですから、否定しようのない確かなものなのです。

様々な苦悩を抱えながら日常を過ごす私たちですが、戒と共に生きてきた仏様を見習って日々を過ごしていけば、いつしか苦悩が取り除かれ、仏の悟りに近づくときがやってくるのです。そのことを頭の片隅において、戒と共に生きていけたらと願うのです。