第32回 「光陰虚しく渡ること莫れ!―“いただいた時間”を大切に過ごす―


()し一歩を(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。
既に人身(にんしん)機要(きよう)を得たり、虚しく光陰(こういん)(わた)ること(なか)れ。


お釈迦様と出逢い、坐禅とのご縁をいただいたのならば、(もっぱ)ら、その家風を信じて、我が身を委ねていけばよい」というのが前回のお示しでした。

お釈迦様を始めとする仏教の祖師方は、悟りを得るまでの間、幾多の困難に遭遇して悩んだり苦しんだりしながらも、坐禅の道を歩み続け、悟りに到達なさいました。そんな悟りへの道は、私たちにも開かれているのですが、もし、その一歩を間違うとどうなるのでしょうか。それは、言ってみれば、自分たちの勝手な思い込みや判断で、お釈迦様の指し示したガイドブックにない道を進んでしまうということなのですが、当然、その後はタイミングを失するなどして、誤った方向に進んでいくことになるでしょう。「蹉過」とあるのは、好機を逸することを意味しています。悟りを得た祖師方は、一歩を誤ることなく、師のみ教えに従って毎日を過ごしてこられたからこそ、タイミングを逃すことなく、悟りを得ることができた方々なのです。

それと同じように、私たちもお釈迦様が指し示したガイドブックに従って毎日を過ごしていけば、たとえ正道から外れて、邪道に向かうようなことが起こっても、修正しながら、悟りという目標にたどり着くことができるのです。それが「既に人身の機要(最も重要な所)を得たり」の説くところです。

今の自分たちの日常を振り返ってみたとき、もし、何かしらの苦悩を感じるようならば、即座にお釈迦様のみ教えを参考にして、軌道修正していきたいものです。私たちがこの人間世界でいただいている時間は無限ではありません。誰しも平等に与えられているのは、“1分=60秒、一日=24時間”だけです。そんな限られた時間は有効に活用すべきなのです。お釈迦様が「昼は勤心(ごんしん)善法(ぜんぽう)修習(しゅじゅう)すべし」とお示しになりましたが(仏遺教経)、常に自分自身の生き方と向き合いながら、修正すべき点は、面倒くさからずに、修正していく習慣を持ちたいものです。

道元禅師様は中国の石頭希遷(せきとうきせん)禅師様の「光陰虚しく度ること莫れ」というみ教えを引用なさっています。「限りある時間を大切にして修行に励もう」ということです。これは、一般人の日常生活にも十分に当てはまります。道元禅師様が石頭希遷禅師様のみ教えを通じて、私たちが限りあるいのちを大切にし、有効活用することの重要性を強く訴えていることを、今一度、再認識し、いただいた時間を大切に過ごしていきたいものです。