第7回 「自分に酔わない -謙虚に生きる-」
衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと
幾ど出身の活路を虧闕す
平成20年10月に高源院を会場に「やすらぎの会」(坐禅会)を行うようになって、10年目を迎えます【平成29年(2017年)現在】。振り返れば様々な思い出が蘇ってきますが、坐禅会のある生活とない生活とでは、大きな違いがあるように思います。10年前の坐禅会を行う前と、10年後の今を見比べながら、「昔から見たら、今の自分は悟っているような気がする。」と思ったことがありました。
しかし、道元禅師様はそうした比較による捉え方は「自分を真実の道から遠ざけてしまう」と指摘なさいます。それは、言い換えれば、「自分に酔いしれないように!!」ということでもあります。これは私たちが日常生活の中で行っていきたい「
しかし、飲酒やアルコールの製造・販売の是非を問うだけならば、お酒が飲めない人ならば、簡単にクリアできるレベルのものです。特定の人が簡単に守れるようなものならば、わざわざみ教えとして位置づけられることはないように思います。人間ならば誰もがつまずき、悩むからこそ、また、それを実践することで苦悩から救われるからこそ、み教えとして位置づけられるのです。
お酒好きの人が酒を飲んで酔うように、万人を酔わせてしまうもの―それが「自分」なのです。不酤酒戒とは、酒に酔わないようにということを通じて、実は自己陶酔を戒めているのです。すなわち、自分に酔わない、自分に謙虚に生きていくということを説いているのが不酤酒戒なのです。
ここまで押さえた上で本文に戻りますが、
今回の道元禅師様のご指摘は坐禅のみならず、万事にも通じます。何事も早くて簡単に習得できることを喜ぶ傾向が強い現代社会ですが、スポーツであれ、茶道であれ、どの道を見ても、その背景には、坐禅のように深いものがあります。道を極めたプロは、その道を精進していく中で、自らが選んだ道の重みや深みを体得していきました。そうした道への重みを短時間の経験で理解したような思い上がり(自己陶酔)はあってはいけない―有頂天になることが、肝心なものを見失わせるのだ」と道元禅師様は仰っているのです。
「自分に厳しく、他にやさしく」と言います。自分に対する厳しい目を忘れずに、自分たちの道の中に隠された「真実」を見ていこう」―それが、坐禅を通じて、我々に発せられた「メッセージ」なのです。