第7回仏界への旅立ち(2) 懺悔文(さんげもん)−」

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞくしょあくごう) 皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

自らと謙虚に向き合い、過ちがあるならば二度と同じことを繰り返さないことを誓い、きれいな心を維持していくことを心がけていくことが「懺悔」でした。

そうした「懺悔」を言葉で行うのが、「懺悔文」です。その意味・内容は下記の一覧表の通りです。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 私は今まで大小関係なく様々な罪を犯してきました
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち) すべては自分の貪り・怒り・愚痴によるものです
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう) それらは自分の身(動作・行い)・口(言語)・意(思考)から生まれました
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) そこで、私はこれらすべての罪を心から悔い改めます

仏教では「身口意(しんくい)三業(さんごう)」といって、(ごう)(私たちの行い)を「身」・「口」・「意」の3つに分けて捉えます。懺悔は身口意のそれぞれで行えますが、それらが一体化すれば、より強く罪を悔いようとする意識が生まれ、二度と同じ過ちを犯さないことをしっかりと心に刻むようになるのです。

ちなみに「懺悔」の「懺」は、「懺摩(せんま)」の「懺」で、「許しを請う」ことです。また、「悔」は悔過(けか)」の「悔」で、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という意味があります。ですから「懺悔」とは、「懺摩」と「悔過」という二つの言葉から生み出された言葉なのです。

人は自分の苦悩や思い通りにならない現実に出逢ったとき、その原因を他者に求めがちです。しかし、それは間違いです。万事が自分の身口意の三業から生み出されたものであり、原因は自分が作り出したものなのです。「懺悔文」では、今の自分が置かれている状況は、実は他でもない、過去において、自分の中に存在する三毒煩悩(貪・瞋り・愚かさ)によって生み出されてしまったものであることに気づかせると共に、もし、この先、三毒煩悩が発生するようなことがあれば、自分の心をコントロールし、言葉や行いになって外に出てしまう前に消し去ることが大切であると説いています。煩悩が一度、発生すると、私たちの心を乱すだけではなく、周囲の人々をも苦悩の渦の中に巻き込んでいきます。そんな煩悩がどうやって発生するのかを踏まえた上で、周囲を苦しめるまでに至らぬよう、生涯に渡って懺悔を繰り返していくことを習慣づけたいものです。

人間は誰しも仏性(ぶっしょう)というきれいな心を有しています。ところが、仏性は三毒煩悩によって汚れていくのです。そんな仏性だからこそ、日頃からきれいに手入れをしておく必要があります。その手入れが「懺悔」であり、その具体的方法の一つとが、「懺悔文を唱えること」なのです。

こうした懺悔を繰り返すことで、仏に近づいていきます。それは亡くなった方だけに当てはまることではありません。生きている我々だって同じなのです。「懺悔」を通じて、少しでも仏様に近づけるように、日々を過ごしていきたいものです。