第9回  「古聖(こしょう)からのエール」


古聖既(こしょうすで)(しか)り、今人蓋(こんじんなん)(べん)ぜざる


端坐六年(たんざろくねん)の末、悟りの境地を得られたお釈迦様。
面壁九年(めんぺきくねん)にも及ぶ坐禅修行を行なって、悟りの境地を得られた達磨様。

そうした「過去に生きた悟りを得た祖師方」をここでは、「古聖」と申しています。それはお釈迦様や達磨様だけに限ったことではありません。現代から見返せば、道元禅師様はもちろんのこと、「祖師」と称される多くの方々も「古聖」です。そうした「古聖」方でさえ、長くて厳しい坐禅修行の末、悟りの世界に達したのだから、我々がそう簡単に悟りの境地に達することはできまいというのが、本段の意味するところです。

この一句は、お釈迦様を始めとした祖師方が体得された悟りの世界というのは、それほどまでに長くて険しい道のりだということを意味していると捉えることができるでしょう。しかしながら、そんなハードな道のりを「小水が石を穿つがごとく(少量の水も流れ続けていれば固い石が割れる時がやってくること)」坐禅を行じ、「立派な人」になられたのが祖師方なのです。それが我々と同じ人間である「古聖」方の修行の結果ならば、我々凡夫だって、同じようにすれば、凡夫を脱して悟りの境地に達することができるはずです。この一句は、そうした我々凡夫に対する古聖からのエールが含まれているように感じます。

果たして我々は古聖のように「水が石を穿つ」がごとき精進ができるでしょうか―?少量の水も流れ続けていれば、硬い石に穴が開くときがやってくるとお釈迦様はおっしゃいます(仏遺教経)。果たして、そんな努力が我々凡夫にできるのかどうかということです。

それは高くて険しい道のりですが、祖師方はそれを自ら歩み、道が開けていきました。我々も同じ人間ならば、その志一つで道は開けるというのが、今回の一句に込められた「古聖からのエール」なのです。