第34回「参坐禅修行を志す人へ ―“参学の高流”へのメッセージ―


(こいねが)わくは()参学(さんがく)高流(こうる)
久しく摸象(もぞう)に習って、真龍(しんりゅう)(あや)しむこと(なか)
直指端的(じきしたんてき)の道に精進し
絶学無為
(ぜつがくむい)
の人を尊貴し
仏仏の菩提(ぼだい)合沓(がっとう)
祖祖の三昧(ざんまい)嫡嗣(てきし)せよ

昔、ある国王が人々に目かくしをさせて、象を触らせ、後でどんなものだったかを聞きました。すると、象の足を触った人は足についての感想を、耳を触った人は耳の話を、尻尾を触った人は尻尾の感想を、それぞれが述べました。皆、同じ象を触っているのに、触る場所が違えば、出てくる意見も違ってくるのでしょうが、このお話は、一部分だけに触れたり、見たりしていたのでは、全体像が掴めず、真の姿を把握することができないということを説いています。それを指し示しているのが「摸象に習う」です。「摸像」というのが経典祖録の文字ばかりに捉われ、仏道の全体が把握できていないことを意味しています。この点はお釈迦様から伝わる坐禅を説く我々僧侶にとって、特に注意しなければならない点です。“坐禅をやって、やって、やり続ける”という日常なしに、法を語っても、それはせいぜい大法の一部分に触れたにすぎず、ホンモノからはるかにかけ離れた中身の薄いものでしかありません。そのことを肝に銘じて、日々の布教に勤しんでいきたいものです。

「摸象に習う」に並立して提示されている「真龍を
(あや)しむこと勿れ」でも同様のことが説かれています。「葉公(しょうこう)の龍」ということわざがあります。中国の春秋・戦国時代、楚の国に葉公(しょうこう)という人物がいました。彼は大の龍好きで、部屋中が龍の彫刻や絵画などのグッズであふれかえっていました。ある日、そんな彼を喜ばせようと、ホンモノの龍が彼の前に姿を現したのですが、彼は驚いて気絶してしまったというのです。このお話はニセモノに価値を見出してばかりいると、ホンモノの真価に気づかないものであるということを説いています。「参学の高流(坐禅修行を志す優れた人)」こそ、道を修し、「真価を見通し、全体を見渡せる目を持つ」ことが求められます。そして、そうしたものの捉え方は、まさに観世音菩薩様(観音様)の“観”に込められた「物事を広く見渡す・深く見通す」というものなのです。

それを心がけながら、「直指端的(じきしたんてき)の道に精進せよ」道元禅師様はおっしゃいます。「直指」は言葉や文字を用いて事細かく説明するのではなく、端的に説明し、伝えることを意味しています。お釈迦様始め道元様や瑩山様といった、仏様や祖師方が我々に直指単伝してきたのは、ただ一つ、「坐禅」です。難解かつ複雑な言葉や教えの羅列ではありません。その坐禅を“やって、やって、やり続ける”ことが「直指端的の道に精進すること」であり、そうやって多くの祖師方が悟りを得、お釈迦様の坐禅が今日に伝わっているのです。

そんな仏様や祖師方のような、学ぶべきものを全て学びつくし、体得したものを超越した自由無碍の境地に至っている方々を「絶学無為の人」と道元禅師様はおっしゃっています。そして、そんな方こそ、尊貴(尊ぶ)べきであるともおっしゃっています。なぜなら、絶学無為の人を尊貴し、坐禅修行に励んだ人々が、今日の世界に仏法を伝え、我々とのご縁を育んでくださったからに他ならないからです。絶学無為なる人を師と仰ぎ、その後に付き従えば、善き刺激をいただき、どんどん自分の襟元が正されていくのです。
そして、そうすることが「仏仏の菩提に合沓(がっとう)する」ということです。「合沓」は混じり合うことです。お釈迦様以降の祖師方が指し示す「直指端的の道」に精進してくことで、次々と仏のお悟り(菩提)とのご縁が育まれていくというのです。それと同じことを「祖祖の三昧(ざんまい)嫡嗣(てきし)せよ」が説いています。これは、道元禅師様が祖師方の伝えてきた「三昧(坐禅)」を自ら実践し、嫡嗣(後世の人々に伝えていくこと)を願うお気持ちそのものなのです。

いよいよ「普勧坐禅儀」も結末に近づいていますが、今回の一句を通じて、道元禅師様は坐禅に限らず、何事も理屈をあれこれ口にする前に、とにかくやってみることが肝心であり、そうやってご縁をいただいたものをやって、やって、やり続け、追求していくうちに、悟りという、その道の完成が見えてくるということを人々にお伝えしたかったのではないかと感じます。かく言う私自身も「参学の高流」を目指して、襟元を正し、少しでも坐禅を通じてお伝え出来るものが持てるように精進してまいりたいと感じております。