第24回 「正伝の坐禅によって ―龍のごとく、トラのごとし―


()()の意を得ば
龍の水を得るが如く、虎の山に()るに似たり。
当に知るべし
正法(おの)ずから現前して、昏散先(こんさんま)撲落(ぼくらく)することを。


「坐禅は習禅(しゅうぜん)には非ず、唯是安楽(ただこれあんらく)の法門なり。公案現成(こうあんげんじょう)羅籠未(らろういま)だ至らず」
【意訳】坐禅は方法や技術を習得しながら行うものではなく、ただ坐ることで、我が身心が調っていく行いであり、全ては自分たちの眼前にありのままに姿を現している。

この前段の一句は普勧坐禅儀の中でも道元禅師様の思想が色濃く表現されている中心的な一句だと思います。それを受けて、今回の一句が示されていると解すべきでしょう。まず、「若し此の意を得ば」ということですから、先に申し上げました前段の内容を指しながら、「もしも、これを理解・体得できたならば」というくらいに解釈すればよろしいかと思います。

“此の意”を得たら、どうなるのでしょうか。道元禅師様は正法自ずから現前して、昏散先づ撲落することを」とお示しになっています。「正法自ずから現前」とは、「公案現成」のことで、この世の真理・道理は既に我々の眼前に現れているということです。「昏散」とは心が乱れて活気のない状態であり、「撲落」は自分の身心を束縛する存在から解放され、自由になった状態のことで、まさに「羅籠未だ至らず」の状態です。

さらに、“此の意”を読み味わっていくならば、お釈迦様や道元様・瑩山様が行じ伝えてきた“ホンモノの坐禅(正伝の坐禅)”が我々に指し示すものと捉えることもできるでしょう。「正伝の坐禅」は、道元禅師様のお言葉をお借りするならば、無所得無所悟(むしょとくむしょご)の坐禅」ということです。これは、坐禅をしても、何も得るところもなければ悟るところもない、すなわち、坐禅を行う前からあれこれ期待を抱いて臨んでも、自分の思い通りにはならないということです。余計な期待を持ち込むことなく、ただ、坐ることに我が身を委ねれば、自ずと安楽の法門を潜っているのです。

そうした「正伝の坐禅」が身につけば、我が身心が何物にも捉われない自由な状態になるというのです。それをあたかも水を得て生き生きと動き出す龍のようであり、広い大自然の中を自由に走り回るトラのようなものなのであると道元禅師様はお示しになっています。すなわち、お釈迦様から代々伝わる坐禅に、できるだけ私見を交えずに接していくことで、私たちは水を得た龍や山を駆け回る虎のように、何にも捉われず、心安らかな状態が実現できるということなのです。