第11回  「身心脱落(しんじんだつらく) ―執着から解放されたとき―」


身心自然(しんじんじねん)脱落(だつらく)し、本来の面目現前(めんもくげんぜん)せん

恁麼(いんも)()を得んと(ほっ)せば、急に恁麼(いんも)の事を欲せよ



曹洞宗の大本山・總持寺(そうじじ)(神奈川県横浜市鶴見)をお開きになられた瑩山(けいざん)禅師様は著書「洞谷記(とうこくき)」の中で、道元禅師様が中国で坐禅修行中に、師の如浄(にょじょう)禅師様から「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉を学び、大悟(だいご)した(悟りを得た)ということを記されていらっしゃいます。

この「身心脱落」というのは、身も心も一切の束縛から放たれ、自由になった状態を指し示しています。すなわち、これまで自分自身が様々なものに執着していたことが、あらゆる苦悩を生み出す原因であったことに気づき、身心共々、とらわれるものがなくなって、すっきりとした状態になることを意味しているのです。

こうした状態というのは、味わったことがなければ、なかなか想像し難いものがありますが、「すがすがしい」というか、「怖いものがなくなる」というか、何ともいえない爽快な状態です。“仏教の本場”と信じて渡った異国の地・中国で、如浄禅師様に出会い、ついに悟りの境地を得ることができた道元禅師様にとって、何とすがすがしく、爽やかな瞬間を迎えられたかは想像に難くありません。

ここで「自然(じねん)」という言葉に触れておきたいと思います。これは一般的には「しぜん」と読みますが、よくよく見てみますと、読み方が「じねん」となっていることに気づきます。

「しぜん」と「じねん」の違いについて、かつて、住職になりたての頃、あるお檀家さんからご質問いただき、辞書を片手にお答えさせていただいたことを昨日のことのように思い出します。日頃、何気なく流してしまう仏教語でも、お檀家さんが一般の視点からご質問してくださることで、新たな発見に巡り会えたことが、これまで多々ありました。お檀家さんには本当に感謝です。

さて、「しぜん」と読む場合は、「人工の加わらない状態」を意味します。具体的には、「山や川や海」などです。

それに対して、「じねん」と読む場合は、「しぜん」のような“人為が加わらない”という意味に加えて、本来の性質に従って、あるがままに存在している(「自然法爾(じねんほうに)」)という意味があります。仏様のお力によって、自分の性質のままに、あるがままに存在しているということです。そこでは、人間始め何か外部の力が加わることはありません。


そうした「じねん」という点に留意しながら、「面目現前(めんもくげんぜん)」という言葉を解釈してみますと、「仏(釈尊)・法(坐禅)の力で、抱えていた執着から解放され、真の自由を得た僧(道元禅師様はじめ多くの祖師方)の眼前には新たな世界が開けた」となります。「身心脱落」による新たな世界というのは、頭で考えたり、理屈でとらえたりしようとしても、浸れるものではありません。「坐禅」という“行”を地道に続けるしかないのです。ちなみに、「面目」とは「かたち」を、「現前」とは「あらわれること」を意味します。

次に「恁麼(いんも)」という言葉が出てまいります。「このように」という意味の言葉でした。「坐禅(仏法)は頭で解釈するのではなく、全身で体得するものだ」ということを、道元禅師様は「身心脱落」などのみ教えを踏まえながら「身心を脱落させ、新たな世界に向かうには、坐禅をするしかない!」と強く訴えているのがこの箇所なのです。

こうして、道元禅師様は坐禅というのもが、「安楽の法門」への第一歩として、いかにすぐれたものかを、ご自身の体験などを踏まえて、お示しになってまいりました。そして、いよいよ次の段から、坐禅のやり方についてお示しになられます。それは、坐禅の組み方のみならず、坐禅をする環境だとか、服装、体の状態などまで、とても綿密に記されています。