第22回「回向―故人と遺族の“成仏”を願って―

平成25年1月23日(水)の北國新聞・夕刊に“家族葬 直葬(じきそう)増える”という見出しで現代の葬祭事情に関する記事が掲載されていました。その中で、ある葬儀社の社長さんが「故人も遺族も高齢になり、勤務先や地域とのつながりが希薄になってきたことが背景にある」と分析していました。“人間同士の関係の希薄化”が言われるようになって久しいですが、家族葬や直葬といった形態の葬祭の背景には、こうした社会の変化が大きな影響を与えていると感じています。

そうした「家族葬」という言葉が定着して随分、月日が流れました。世間における認知度が高まる中で、その要望に応えるべく、家族葬専用の会場を持つ葬儀社さんも出てくるようになりました。そして、こうした状況に拍車をかけた存在があります。それが、昨今の新型コロナウイルスです。コロナ禍においては、“三密回避”とあるように、人間同士の接触を断とうとするわけですから、より一層、人間関係の希薄化が進むことは明白です。“さらなる人間関係の希薄化”―この点は一考すべきではないかという気がしています。

「家族葬」について、規模の面から申し上げるならば、これまでの葬儀のような、“大勢の人で盛大に見送る”ということを思うと、少人数で簡素化したものになっています。しかし、だからといって、遺族様の故人様に対する愛情が縮小化しているかと言えば、そうではありません。また、決して、信仰心が薄くなっているかと言えば、必ずしもそうとも言えないような気もします。私自身、施主様のご依頼による「家族葬」を幾度もつとめさせていただきましたが、そこにあるのは、社会の変化による葬祭そのものに対する意識の変化であり、ご遺族様の家族に対する思いや葬祭の場を大切にしていきたいという思いは、昔と変わっていないどころか、より一層、強まっているとさえ感じたこともありました。

―「葬祭を仏縁を育む布教の場と捉え、施主様の思いを受け止めながら、只管に丁寧につとめさせていただく」―
この一点だけが、葬祭執行者という役目を司る私の思いです。

さて、今回は、故人様を棺に安置し、その成仏を願って読経させていただいた後にお唱えする「回向(えこう)」に触れてみたいと思います。
「回向」は読経の善行を通じて、その功徳を供養・祈念の対象者(今の場合は故人様)に向け、仏道に入らしむることを願ってお唱えするものです。

その回向文を下記にご紹介させていただきます。

上来(じょうらい)念誦諷経(ねんじゅふぎん)する功徳は、新帰元(戒名)に回向す。
伏して願わくば神浄域(しんじょういき)を越え、業塵労(ごうじんろう)を謝す。
(はす)上品(じょうぼん)の華を開き、仏は一生の記を授く。
再び清衆(せいしゅ)を労して念ぜんことを。

回向では、まず、これまで「大夜念誦(たいやねんじゅ)」や「十仏名(じゅうぶつみょう)」でお唱えしてきた功徳を、故人様に巡らせることが示されます。「神浄域を超え」とありますが、仏教という仏様の世界の中に、神様が登場しているような印象を受け、違和感を覚えますが、“神”には、“霊魂”の意があります。すなわち、ここには、故人様の魂が、浄・不浄の分別がある娑婆世界を超えて、分別なき仏の世界に赴くようにという願いが込められているのです。

次に、「業塵労を謝す」とあります。「塵労」とは、「煩悩」のことで、「貪り」・「(いか)り」・「愚かさ」という、きれいな心を汚そうとするものです。私たちの塵労(煩悩)を有した生前の行い((ごう))もまた、仏の世界に赴くとき、謝(煩悩を払い除ける)して、仏の世界(境地)に達するようにという願いが込められています。

そして、「蓮は上品の華を開き、仏は一生の記を授く」とあります。「上品」とは「最上の価値、上等の種類」とあります。仏教では泥水の中できれいな花を咲かせる蓮の姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされてきました。次の「仏は一生の記を授く」では、仏様が一生涯にわたって積み重ねてきた修行の足跡(記録)のすべてを、そっくりそのまま故人様に授けることが願われています。これらが指し示すのは、仏様が故人様の成仏を保障しているということです。

そうやって故人様の成仏を願って、その保障を与えた上で、今一度、清衆(他の僧侶)と共に読経を勤める(労して)ことを誓い、次の場面(読経)につながっていきます。

葬儀では、様々な場面が展開され、幾度も読経が繰り返されていきますが、そこに込められた願いは、共通して「故人様の成仏」です。そして、それを通じて、故人様と深い縁のあるご遺族様始め、その場に身を置く全ての者が、この娑婆世界において、故人様と同じように成仏の日常を送ることが、葬祭執行における願いです。

社会の変化を受けて、葬祭の形態も変化していくものなのかもしれませんが、葬祭が「故人様とご遺族様の成仏の場・機縁」であることを自覚し、それを願うことだけは忘れることなく、葬祭の場に携わっていきたいものです。