第13回  坐禅の条件 その1

坐禅が伝える“偏らない”環境と食生活



静室宜(じょうしつよろし)しく、飲食節(おんじきせつ)あり。
諸縁(しょえん)放捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)休息して、
善悪を思わず、是非を(かん)すること(なか)


一般的に、“禅宗の修行は厳しい”というイメージがあるようです。永平寺様などの修行道場における修行僧たちの日常がテレビで放映されることがありますが、明け方の、薄暗くて寒そうな場所で、時折、警策(きょうさく)で叩かれる音が響く中、黙々と坐禅に励む修行僧たちの姿からは、禅の修行の厳しさがにじみ出ているような気がします。

禅宗に限らず、他の各宗派でも仏道修行というのは厳しいものです。しかし、そんな仏道修行に対する一般社会の見解を見ていると、どうも“厳しい”と “辛い”が混同されているような気がしてなりません。“厳しい”と“辛い”とでは、意味が違います。厳しさを滲ませる修行僧たちは、決して、辛い思いをしながら、我慢大会のごとき“苦行”に励んでいるわけではありません。そうしたものは既に乗り越えているのだということです。

曹洞宗の開祖・道元禅師様は「坐禅は“安楽の法門”」であるとおっしゃいました。確かに、最初は身体が慣れるまでは足もかなり痛みますし、苦行と感じるような場面もあるでしょう。しかし、習慣化してしまえば、辛さが和らぎます。そうやって辛さや苦しみを乗り越えることができたとき、「安楽の法門」という言葉に合点が行くのです。恐らく、多くの修行僧たちもそうした境地を体得しているはずです。

そうした「安楽の法門としての坐禅」となるためには、慣れも必要でしょうが、それ以外にも様々な条件があります。今回はその中から「環境」と「食生活」を取り上げさせていただきます。両方とも私たちの日常生活の中においても大切な様相ですが、坐禅の世界においても欠かすことができません。

安楽を感じられる環境とは一体、どんな環境なのでしょうか??―それが「静室(じょうしつ)」です。「静かな場所」ということでしょうが、道元禅師様は「静室」こそ坐禅に適した場所だとおっしゃっておられます。

この「静室」というのは、何も地下室のような、人工的に作られた無音の場所ということではありません。鳥の鳴き声が聞こえてきてもいいのです。近くを流れる小川の音があってもいいのです。とは言え、繁華街のような賑やかな場所である必要はありませんが、「自然の音は自然に任せて聞こえてくるがよい。自分が心落ち着く静かな場所がよかろう。」ということなのです。これは、いわば、両極端(騒でも静でもない)、適度な静けさを保った場所だということです。

さらに「静室」には、温度も含まれていることに注目しておきたいものです。それらも当然ながら両極端に偏らないものが望まれます。適温といいましょうか、寒いときは、エアコンでも暖房でも使って温かくし、暑いときは涼しくするということを言っているのです。何も我慢大会のごとく、寒い場所でブルブル震えながらとか、篤い炎天下の中、大汗をかきながらするものではないということです。

次に「食生活」です。当然ながら食べすぎてお腹を壊していれば、腹痛の苦しみに耐えながら坐禅をすることになり、とても「安楽の法門」にたどり着くことはできません。食べ物は身体に正直です。食べ過ぎれば、健康を害しますし、逆に空腹ならば、「腹が減っては戦はできぬ」と言わんばかりに、集中力が途切れます。いずれの場合も「安楽の法門」からは遠ざかってしまいます。お腹の中も、両極端に偏ることがないように調節しておきたいものです。「飲食節(おんじきせつ)あり」が意味するのは、適度な食事で正しい食生活を心がけるということです。

様々な生活習慣病が存在する中で、近年は人々の健康志向が強くなっています。健康維持のためには、食生活の改善が一つの重要なポイントになっているようですが、「飲食節あり」を標榜する坐禅が、食生活を正し、健康の維持にもつながっていくという解釈を見逃してはいけません。「坐禅は人が健康な毎日を送る一つの方法である」―はるか800年近くも前に、道元禅師様とが「人間が健康な毎日を送る術」をお悟りになっていたことは注目に値すべきことではなにでしょうか。

お酒を飲む機会が多い私にとって、確かに飲みすぎた翌日は、お腹の調子が悪くて、坐禅に集中できなかったことがありました。逆に、きちんとした食事をし、睡眠を取った翌朝はすがすがしい坐禅ができました。そんな実体験を通じて、安楽の法門たる坐禅を続けていく上で、食生活の大切さを痛感します。そして、そんな坐禅を毎日繰り返していく時、食生活を調え、健康な生活を送っていきたいものです。これも坐禅が説く「調身(ちょうしん)(身体を調える)」につながっているのです。

ということで、坐禅に親しむ生活とは、体調を管理し、生活を整えるということだと気づきます。そのために偏らないことが大きなポイントでしょう。そして、物事の善悪や是非に捉われ、どちらか一方に左右されることがないようにしていきたいものです。そうした偏らない、中道(ちゅうどう)の生き方というものを説いているのが「諸縁(しょえん)放捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して、善悪を思わず、是非を(かん)すること(なか)れ」なのです。