第35回 「
久しく
須
宝蔵自
受用如意
いよいよ道元禅師様が筆録された「坐禅のススメ」も最後の箇所になりました。この「普勧坐禅儀」のラストにて、道元禅師様はいったい何をお示しになるのでしょうか。
まず、「久しく恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし」とあります。「恁麼」という言葉は仏教経典には頻繁に登場する言葉で、「このような」という意味を持った言葉です。ですから、「長らくこのようなことをなせば、必ずやこのようになるだろう」ということなのですが、「このような」とは何を指しているのかを考えたとき、これまで道元禅師様が「普勧坐禅儀」の中でお示しになってきたことを全てを指していることに気づかされます。それが何かを考えていきましょう。
まず、前段において、「
本日(令和2年9月3日)の北國新聞朝刊・「いしかわ文化万華鏡」には、去る7月5日に93歳にてご遷化になった板橋興宗禅師様が大きく取り上げられていました。禅師様がお亡くなりになって2ヶ月。禅師様の兄弟弟子のご老師や、お弟子様、大本山總持寺で禅師様の側近をお勤めになったご老師、親しくお付き合いをなさっていた檀信徒の方、多くの方が生前の禅師様のお姿を思い起こし、コメントなさっていらっしゃいました。
中でも、板橋禅師様が「直指端的の道に精進する」と」いうみ教えがピッタリと言わんばかりに、坐禅を“やって、やって、やり続けてきた”ことに触れられているご老師もいらっしゃいました。「今どきの坊さんで、あれほど坐禅に打ち込んだ人を知らない」―このお言葉を肝に銘じ、少しでも「絶学無為の人」たる板橋禅師様に近づけるよう、精進してまいりたいものです。
そんな板橋禅師様は「坐禅を続けると、心が柔らかくなり、どんなことにもすぐ対応できる強さをそなえる」とご自身の著書の中でも説いていらっしゃるとのことです。私は、このお言葉は「坐禅をするとどうなるか」という問いに対する板橋禅師様のご解答と捉えています。すなわち、坐禅によって、心が調い、身体が調い、呼吸が調うという、「調心・調身・調息」ということを、我々凡夫にわかりやすくお伝えくださっているように感じるのです。
この「坐禅をしたら、どうなるか」という点について、道元禅師様は「宝蔵自ずから開けて受用如意ならん」とお示しになっています。「宝蔵」とは、教法の蔵ということで、仏のみ教えがぎっしりと詰まったものであり、仏法そのものを意味しています。そんな宝蔵たる仏法を、「受用如意」、自由自在に使用できるようになると道元禅師様はおっしゃっています。如意というのは、「意の如く」とありますように、自分の思うがままにということです。
それらを踏まえた上で解釈してくならば、坐禅によって、仏のみ教えを自分の思うがままに自在に操れるようになるということは、私たちは、坐禅を“やって、やって、やり続けてく”中で、仏に近づき、仏のごとき存在になっていくと捉えることができます。そして、それをもう少し具体的に捉えていくならば、板橋禅師様がお示しになったように「心が柔らかくなって、どんなことにも対応できる強さが具わる」ということになると、私は捉えさせていただいております。どんなことにも対応できるということが、「宝蔵自ずから開けて受用如意ならん」という、仏法を自在に扱える仏のごとき存在になることと通じ合っているのです。
「普勧坐禅儀」の最後の一句を味わわせていただくタイミングで、板橋禅師様の坐禅観に触れさせていただくと共に、それがお釈迦様から道元様・瑩山様へと脈々と伝えられてきたものであることを再確認させていただけたことに、この上ない感動を覚えます。そして、板橋禅師様のような「絶学無為の人」と巡り合うことができた仏縁に感謝しながら、私自身も少しでも「絶学無為の人」を目指し、精進していきたいものです。