第25回  「真価に気づく」


是時十方法界(このときじっぽうほっかい)の土地、草木(そうもく)牆壁(しょうへき)瓦礫皆仏事(がりゃくみなぶつじ)()すを以って、
其起(そのおこ)す所の風水(ふうすい)利益(りやく)に預かる(ともがら)
皆甚妙不可思議
(みなじんみょうふかしぎ)
仏化(ぶっけ)冥資(みょうし)せられて、(ちか)き悟りを(あらわ)


お釈迦様のみ教えとは、私たち一人一人が自分の周囲の存在に対して、どのように関わっていけばいいのかという問いに対する解答です。すなわち、私たちと周囲とのあるべき関わり方です。

そうした問いに対する解答の一つに、「あらゆるものに対して、自分の好みに捉われて、好悪の感情を起こさず、平等に差別なく接する」というのがあります。そうしたものの見方や関わり方によって、一つ一つの存在が有する固有の価値を見出せるようになっていくと共に、前回お話した戒の功徳にも通じてくるのです。

人間だけではなく、犬や猫であれ、身の回りにあるコップや一冊の本、果ては、野に咲く草花にしろ、道端に転がる石ころにしろ、すべてに存在価値があります。見た目には一つ一つは全く異なる存在ですが、全てが固有の価値を有する平等な存在です。「かわいい子どもがいてくれるから、一生懸命働ける」、「その一冊のおかげで救われた」、「道端に咲くタンポポを見て、日頃の疲れが吹っ飛んだ」―ふとしたご縁で、誰かが何かに救われることがあります。あたかも悟りを得た仏様のお力で、心の中の苦悩が消えて、安心感を覚えるように―それが存在価値というものです。

そうしたあらゆるモノの存在価値を仏教的観点から説くと、「是時十方法界の土地、草木、
牆壁、瓦礫皆仏事を作すを以って」ということになります。すなわち、あらゆるものが「戒の実践者」たる仏様が姿形を変えたものである―「仏の化身」であると説いているのです。私たちが自分の見方に捉われ、自分の好みで周囲と関わっているならば、全てが仏の化身であることに気づくことができません。そうした一点集中の狭いものの見方ではなく、広く見通し、深く見抜いていくことで、それらが秘める価値が見えてきて、いつしか物事の真価に気づかされていくのです。それを「甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、親き悟りを顕す」と説いています。「甚妙不可思議の仏化」とは仏が有する摩訶不思議な力によって、私たちがあらゆるものの真価に気づくことを指します。「冥資」とは知らぬ間に加護を受けているということを意味しています。

「あらゆるものに対して、好き嫌いの感情を起こさず、平等に差別なく接する」―そういう道をお釈迦様が見出したのは、お釈迦様が「いつ・どこでも・すべてのものが真理を説いている」ことをお悟りになったからです。すなわち、あらゆるものに存在価値があることに気づかれたからであり、私たちもそこに至ったとき、私たち自身ががすべてのものから知らぬ間に恩恵を受けていたことに気づかされるのです。そんな真価に気づけるような接し方を目指していきたいものです。