第26回 「自然=“じねん”が意味するもの」
前段で道元禅師様は、私たちが自分の狭い見解から解放され、物事を広く・深く捉えることができるようになったとき、この世の全ての存在(十方法界の土地、
仏さまの悟りは仏道修行によって、得られたものには変わりありませんが、更に突き詰めていくならば、そもそも最初から存在していた悟りというものが、たゆまぬ仏道修行によって段々、姿を現し、自覚できるようになったというのが本当の所です。これは、言ってみるならば、0の状態から一生懸命精進して100になったというのではなく、精進しながら自然と100に気づいたということです。
そのことを道元禅師様は「無為の功徳」であり、「無作の功徳」であると表現なさっています。無為とは「〜のために」といった明確な目標や目的のない状態、言わば、作り事ではない自然の流れによって生じた状態ということです。お釈迦様が坐禅修行によって、この世の仕組みに気づき、仏に成られたとき、自然と戒が身についていて、戒の生き方を実践していたというのは、まさに「無為の功徳」なのです。
そして、無作とあります。作り事ではない、働きのない状態ということでしょう。やはり、人工を加えない、自然の働きであったということが繰り返し強調して説かれています。
「自然」という言葉が出てきましたが、思い出すのは、高源院の住職になりたてのころ、お檀家さんに「なぜ、仏教では、自然を“しぜん”ではなく、“じねん”と読むのか?」と、ご質問いただいたことです。これは非常に重要な問いで、まだ駆け出しだった私は、即座にいろいろと調べさせていただき、お答えさせていただきました。今思えば、貴重な学習の機会をいただいたと感謝しております。
“じねん”という読み方には、あるべき変化によって、ありのままの姿になっていくという意味があります。それは、この世のすべての存在における真実の姿であり、「諸行無常」の意が込められています。
今年(平成30年1月)の金沢市内は6年ぶりに60pの積雪を記録するという、大雪の冬となりました。本日(2月4日現在)、暦の上では立春といいながらも、路肩には、まだ溶けきっていない雪が山積み状態になっています。
しかし、だからと言って、この雪がいつまでも地上にあるわけではありません。春が来て暖かくなれば、融けてなくなります。これが「諸行無常」です。そこには、外部から手を加えてみたり、何か人を驚かせ、喜ばせてやろうというような意図はありません。時間との関わりの中で、縁に随って変化し、あるべき姿に落ち着いていくのです。それが物事の本来の姿であり、“じねん”という読み方が指す「自然」なのです。すなわち、戒を身につけようとして、毎日を過ごしていたら、いつしか戒の功徳が発揮できるようになっていたということなのです。