第8回仏界への旅立ち(3)―三宝帰依の日常生活を心がける―

己に身口意の三業を懺悔して、大清浄なることを得たり。
次には應に仏法僧の三宝に帰依し奉るべし。

髪やひげを剃って出家者の姿となり(没後作僧(もつごさそう))、生前の罪過を悔い改める「懺悔(さんげ)」によって心を清浄に調えた故人様は、正真正銘、身も心もきれいになりました。それが「己に身口意の三業を懺悔して、大清浄なることを得たり」の意味するところです。

「懺悔」に関しては、「修証義第二章」や「教授戒文」の中でも触れられていますが、懺悔の次は、「應に仏法僧の三宝に帰依し奉るべし」とあるように、「三宝(さんぼう)帰依(きえ)すること」を誓います。この「三宝帰依」こそ、我々、仏教徒の基本的な姿勢です。

そもそも仏教は、今から2500年ほど前にお釈迦様がお悟りになった永久かつ不変の真理です。それが今も尚、我々の眼前に存在し、多くの人々の心の拠り所になっている事実を思うとき、すごいことだと感動を覚えます。人間の歴史の中で、香ほどの長い年月を経て存続している存在は、ほとんどないからです。まさに「仏の慧命(えみょう)嗣続(しぞく)してきた存在」です。

そうした中で、“三宝”という“三つの宝”は、仏のみ教えを今日まで殺すことなく生かし続けてきた三つの尊き存在のことです。三宝について、道元禅師様はそれぞれが宝たる所以をわかりやすくお示しくださっています(詳しくは修証義第3章 第11回「帰依の理由(わけ)をご覧ください)。

仏は大師(だいし)なるが故に帰依す
“三宝”の一つ目の「仏」について、道元禅師様は
「仏は大師(だいし)である」とお示しになられました。「大」とは、大小の比較を越えた無限大の力を意味します。仏は、どんなときでも、誰に対しても、分け隔てなく救いの手を差し伸べることができる先生のごとき存在であるがゆえに、「大師」であるというのです。

法は良薬(りょうやく)なるが故に帰依す
二つ目は「法」です。これは仏のみ教です。
道元禅師様は「法は良薬(りょうやく)である」とお示しになっています。私たちの身心を蝕み、ときにはいのちを奪い去ってしまうような「悪い薬」が人間世界には数多存在しますが、それとは正反対の、服すれば必ず救われるのが「良薬」です。つまり、法はどんなときでも、どんな人にも救いの手を差し伸べてくださるのです。

僧は勝友(しょうゆう)なるが故に帰依す
三つ目は「僧」です。人が歩くところには道ができますが、いつの時代も、仏を敬い、法を実践しながら、「仏道」を歩んできた人がいました。それが「僧」です。
「僧は勝友(しょうゆう)である」と道元禅師様はおっしゃいます。“勝友”とは“勝れた友”のことです。仏道を歩むという点において、志を同じくした者同士ゆえに“勝友”なのです。ちなみに、「僧」は「僧侶」のみを意味するのではありません。出家・在家に関わらず、仏道を歩んだ人全てを意味します。そんな仏道を、今を生かされる我々も同じように歩けば、仏と巡り合うことができるのです。

こうした「仏・法・僧」の“三宝”は別個に存在しているのではありません。一つに溶け合い、一体なって三宝を形成しているのです。ですから、もし、どれか一つが欠けていたならば、今の世に仏教が存在することはなかったでしょう。

その三宝を心の拠り所として生きていくことが仏教の願いです。 「帰依(きえ)」とは「拠り所にすること」を意味してます。「帰依」の「帰」は「帰投(きとう)」の「帰」です。自分をどこかに投げ込むということです。「依」は「依存」の「依」です。絶対にそこから離れないということです。すなわち、「帰依」とは、「自分を相手に合わせ、そこから離れない」ということなのです。

葬儀では故人様が仏法僧の三宝に帰依していくことを願うと共に、ご遺族の方々にも、三宝を拠り所とする三宝帰依の日常を願うのです。葬儀を通じて、
故人様のみならず、我々も三宝を自らの拠り所・支えとした「三宝帰依の日常生活」を心がけていきたいものです。