第11回 「帰依の
仏は
法は
僧は
修証義第3章・「
1、三宝とは何か?―仏・法・僧
2、三宝に帰依することによってもたらされるもの―
3、帰依のこころ―純粋な信心から生ずる心
4、帰依のかたち―
こうした流れの中で、今回の一句では「帰依の理由」が示されています。なぜ、我々仏教徒が三宝に帰依することができるのでしょうか?それは仏=「大師」であり、法=「良薬」であり、僧=「勝友」だからであると道元禅師様はお示しになっています。
「仏=
「大師」とはこの世の真理を悟った偉大なる師ということです。それは「第8回・“いる・いない”に関わらず・・・〜如来の十号から学ぶ〜」にて登場した「如来の十号」を参照していただければ合点がいくかと思います。あの10個の称号によって表されるお釈迦様はまさに、この世において何も知らないことがなく、人間のどんな悩みや苦しみにも救いの手を差し伸べられる偉大な存在(大師)であることがわかります。だから我々は仏を信用し、安心して身を任せられる(帰依できる)のです。
「法=
いつの世にも「悪い薬」に手を出して、身を滅ぼす者がいます。最悪の場合にはいのちに関わるところまで行ってしまうこともあります。「悪い薬」は一見、人を幸せにするようなフリをしながら、人を悪の道に誘いこんでしまうとんでもない存在です。
そんな「悪い薬」に対して、「良薬」は苦悩を抱えた人々に救いの手を差し伸べてくれます。服用する者に安心をもたらし、仏への道を完成させてくれる―だから、我々は信用して、法に帰依できるのです。
とうやら、そんな良薬と我々はなかなかご縁を結ぶことができないようです。だからこそ、どうか少しでも多くの人が「悪い薬」の本質に気づき、「良薬」を服用してくれたらと願うのです。
「僧=
僧は勝友であるがために帰依できるということですが、勝友とはすぐれた友達ということです。仏教における勝れた友とは、共に仏の悟りを目指して歩む仲間のことです。
私が布教師として駆け出しの頃の出来事です。ある布教師の大先輩から自分の法話に対して厳しいご意見をいただいた私は、しばらくは口を聞くのも嫌になるくらいに落ち込んでいました。そんな私を励まし、真実に気づかせてくれたのが、お坊さんの仲間たちであったり、お寺の坐禅会に足を運んでくださった参禅者の温かい笑顔であったり、お寺の近くを通りかかったからと訪ねて来てくださった知り合いでした。そうしたお一人お一人の心遣いが自分の中に浸透していくうちに、私は自分に欠けていたものに気づかせていただいたのです。それは、駆け出しの私が、あたかも長年、布教の道を歩んできたベテランのごとき横柄な態度で法を説いていたということです。この気づきによって、私は自らを顧み、一生涯に渡って、謙虚な姿勢で法を求めていくことの大切さに気づかせていただきました。勝友の存在は私に心の安心を与え、新たな気づきをもたらせてくださったのです。勝友は一人では歩けぬ困難な道をも歩行可能にしてくれます。共に仏の道を歩むもの同士、困ったときは助け合い、励まし合うことができる。そして、決して、裏切ることのない存在であり、深い絆で結ばれたもの同志である―だから、信用して、帰依できるのです。
三宝という大きな存在に安心して身を委ねられるのは、自分自身に安心を与えると共に、正しい道へと導いてくれるからなのです。だからこそ、少しでも早く多くの人が三宝とご縁を結ぶことを願うのです。