第65回「正念(しょうねん)の活動 −“非思量(ひしりょう)”乃ち“坐禅の要法(ようほう)”−

(ここ)に於いて()不思量底(ふしりょうてい)思量(しりょう)す。如何(いかん)が思量せん。
(いわ)
非思量(ひしりょう)、此れ(すなわ)ち坐禅の要法(ようほう)なり。
(じき)
(すべか)らく煩悩を破断(はだん)して菩提を親証(しんしょう)すべし。


坐禅中における頭の中の状態について、「思量」とか、「不思量」という言葉が出てまいります。これらの言葉は、道元禅師様が「普勧坐禅儀」の中で用いられており(普勧坐禅儀 第21回「坐禅の要術 −坐禅は“こころと身体の健康法”」、瑩山禅師様は、それをそのまま相承なさった上で、「坐禅中の思考」についてお示しになっています。それが今回の一句です。

瑩山禅師様(1268−1325)がご活躍なさった時代は今から約700年前、鎌倉時代の後期です。この700年の間で時代背景にしろ、人々の日常生活や言葉なども随分変化しており、当時のことを理解しようとするのは至難の業です。ところが、自分だけの力では困難を極めることも、それを得意分野としている人が周囲にいれば、その力を借りて、困難を成し遂げることができます。瑩山禅師様がお示しになった、私のような若輩者には難解に映る「坐禅用心記」も、それを解釈し、わかりやすく伝えてくださる方がいらっしゃるからこそ、坐禅が親しみやすく感じられるようになっていくような気がします。

そんな私にとって、「坐禅用心記」の先生である偉大なる師は、大本山總持寺独住第7世・秋野孝道(あきのこうどう)老師(1858−1934)です。曹洞宗大学林(現・駒澤大学)学長に、大本山永平寺の後堂(ごどう)職など、明治期から昭和初期にかけての曹洞宗門の発展に寄与された秋野老師がお示しになった「坐禅用心記」をはじめとする様々な経典・祖録の講話集(解説書)が世に残されています。

そんな秋野老師がお示しになった一冊である「坐禅用心記講話」と、私が住職を務めさせていただいている松山寺の書庫でお目にかかったのが、令和元年の秋でした。昭和5年(1930年)、秋野老師の晩年、大本山總持寺の貫主職をお務めでいらっしゃった頃でしょう、当時20代前半の若き修行僧にプレゼントしてくださったのが、「坐禅用心記講話」でした。その若き僧侶は、後に松山寺第26世住職を拝命することになる私の祖父で、老師と祖父のやり取りから90年近い歳月がたった今、28世住職となった孫が、参究させていただいています。これぞ、まさに「相承」であり、こうしたご縁をもたらしてくださった秋野老師と松山寺26世住職との仏縁に、只々、感謝するばかりです。

そんな秋野老師が、「坐禅用心記講話」の中で、今回の一句について、「この一節は一番大事なところで」と前置きなさった上で、「へたに講釋(こうしゃく)するよりも、各自が實地(じっち)に坐つて味はつて見る方がいい(原文ママ)」とおっしゃっています。一般には、坐禅中は「頭の働きをストップさせ、何も考えてはいけない、無にならなくてはならない」などといった、誤った解釈が存在していますが、こうした解釈が登場するのも、「実地に坐って味わっていない」のが大きいのではないかという気がします。

しかしながら、坐禅が未経験だという方の全てが坐禅を敬遠してそうなっているのではなく、坐禅とのご縁が熟していないことが最大の理由のように思いますす。秋野老師は、そのことも視野に入れながら、未経験者に対して、「不思量」や「非思量」という難解な言葉を、丁寧に解説なさってくださっています。

秋野老師は「坐禅をして居つてもちゃんと心ははたらいて居る、しかしその心は妄想分別の心ではない、(いわ)ゆる正念(しょうねん)の活動である(原文ママ)」とおっしゃっています。この「正念の活動」というのが、「不思量」であり、「非思量」なる「坐禅の要法」なのです。そして、坐禅をしながら非思量でいることによって、私たちの心や身体が調うと共に、自分の中に発生した三毒煩悩が断たれ、「菩提の親証」、仏の悟りへと近づいていくのです。これは「即心是仏(そくしんぜぶつ)」ということであり、坐禅をしていることそのものが、仏の行いであり、仏に成りきっていると言われる所以なのです。

「正念」ということについて、これは、お釈迦様がお示しになった涅槃(悟り)に近づく上で修すべき8つの道(八正道(はっしょうどう))の一つで、三毒煩悩の原因となる「思慮分別」をせず、万事に仏性(仏のいのち)を認め、その価値を見出しながら我が心を調え、仏の悟りへと近づいていくような心の持ち方をすることを意味しています。この「正念」こそが、「不思量」であり、「非思量」という、坐禅中における私たちの頭の中の状態なのであると、秋野老師はお示しになっているのです。

そうした坐禅に身を投ずることによって、我が身心が調い、安心がもたらされることが、今回も証明されています。コロナ禍による厳しい時代ではありますが、巣ごもり生活を余儀なくされる中で、どうか短時間でもいいから、坐禅を通じて、“安楽のある日常生活”を送っていきたいものです。