第21回 「坐禅の要術(ようじゅつ) ―坐禅は“こころと身体の健康法”―


不思量底如何(ふしりょうていいかん)思量(しりょう)せん
非思量(ひしりょう)()(すなわ)ち坐禅の要述(ようじゅつ)なり


第13回より「坐禅の条件(方法)」について、道元禅師様の見解(み教え)を読み味わってまいりました。作法の観点から見れば、坐禅には細やかな注意点があるものの、それらは実践で習得すべきものだと考えています。とにかく、坐禅は「やって、やって、やり続ける」ことが大切です。

坐禅会で坐禅指導をさせていただくことがございますが、色々な方丈様の指導方法を拝見しながら、指導者の生まれ育ってきた年代や考え方なども影響しているのでしょう、どこか作法を忠実に守り抜くことだけが強調された説明をなさる方丈様がいらっしゃいます。もちろん、作法は大切なのですが、そこだけに集中してしまうと、「坐禅の作法が体得できたから、、もう、やらなくてもいい」というような解釈をしてしまい、継続的な坐禅だとか、日常生活に溶け込んだ坐禅というものにはつながっていかないような気がします。最初は作法に忠実であっても、次第に「安楽の法門」を通過できるよう、坐禅を「やって、やって、やり続け」ながら、我が身を禅の世界に委ねられるようになりたいと感じるのです。

そんな坐禅を行う上で、“最大のねらい”(要述)となるのが「非思量(ひしりょう)」』であると道元禅師様はおっしゃいます。これは、前回も出てまいりましたように、坐禅中に沸き起こってくる様々な考えに、いちいち捉われない」ということです。

坐禅というのは、決して、思考を停止させて行なうものではありません。思考が止まるのは、呼吸が止まるとき、すなわち、死ぬときであり、それが坐禅の目指すものではないことは明白です。ただ、頭の中に沸き起こる思考を放置しておけば、単なる“考え事”になりかねないのも確かです。ですから、思考が沸き起こってきたら、そこに止まらず、即座にそれを手放していく必要性が生じてくるわけで、次々と沸き起こる思考に捉われることなく、姿勢を正し、こころを調え、呼吸をていくことだけを念じ続けていくのです。それが「非思量(ひしりょう)の坐禅」なのです。

こうした坐禅を毎日行ってみると、必然的に気づかされることが出てきます。それは、自分自身の日常生活をを調えることの大切さです。普段から栄養バランスに配慮した健康な食生活を心がけ、暴飲暴食を謹むことで、体調を調えておくこと。また、自室等、自分の身の回りを常にきれいに整頓しておくこと。そうした日頃から自分自身(周囲の環境も含む)を整理整頓し、調えておくことを留意するのが、「安楽の坐禅」という、身心共々に充実した坐禅につながっていくのです。

日々の安楽の坐禅によって、自分の衣・食・住が調っていくとき、実は“坐禅は一つのこころと身体の健康法である”ことに気づかされます。近年、こころと身体の健康のために、職場の休憩時間に坐禅を行う企業があるとのことで、テレビで紹介されていましたが、この会社のように、日常生活の中で、ほんの10分ほどでもいいから、坐禅を取り組む人が増えていくことを願うばかりです。