第29回「人は亡くなったらどこへいく・・・?」

上来聖號(じょうらいしょうごう)称揚(しょうよう)し、覚霊(かくれい)資助(しじょ)す。
唯願わくは慧鏡輝(えきょうかがやき)を分ち真風彩(しんぷういろどり)を散ず。
菩提園裡
(ぼだいおんり)
覚位(かくい)の華を開敷(かいふ)し、法性海中(ほっしょうかいちゅう)無垢(むく)の波を活動す。
茶三奠
(ささんてん)
を傾け、香一爐(こういちろ)()き、雲程(うんてい)奉送(ぶそう)聖衆(しょうしゅ)和南(わなん)す。

今回は葬祭場にいる皆で故人様の成仏を願う「三頭念誦(さんとうねんじゅ)」の後でお唱えする「回向(えこう)」について、ご紹介させていただきます。

まず、「聖號を称揚し、覚霊を資助す」とあります。「聖號」は「聖者のお名前」のことです。「聖號」という言葉を用いることについては、仏弟子となって、仏法に従い、お釈迦様やご先祖様方がいらっしゃる浄土へと旅立つ故人様に対して、敬意を以て関わろうとする思いが汲み取れます。また、その思いは、褒め称えることを意味する「称揚」という言葉にも色濃く表れています。そうした故人様を聖者のごとく敬い、確実に仏の道を進んでいくことを願って、「覚霊を資助す」という言葉が発せられるのです。

次に「慧鏡輝を分ち、真風彩を散ず」とあります。「慧鏡」は「仏の智慧の鏡」ということです。ここでは、故人様が仏の智慧を輝かせながら、「真風」に乗って、いよいよ悟りの境地に向かっていくという様が描かれています。そして、「菩提園裡」とあるのは、そうした悟りの世界の中(裡)を表したものです。また、「法性海中」は仏の広大なる悟りを海にたとえたものです。これらの文言からは、これから故人様が向かう新たなる世界が、仏のお悟りに満ちた花園のような場所であり、穏やかな波がうごめく青海のような場所であるということが想像できます。すなわち、この回向では、故人様が、そうした悟りの花園や真実の大海の中のような、静かなる仏の悟りの世界に、只管、真っ直ぐに向かっていくことを願っているのです。

そうした願いは「茶三奠(ささんてん)を傾け、香一路(こういちろ)()き、雲程(うんてい)奉送(ぶそう)聖衆(しょうしゅ)和南(わなん)す」にも込められています。「三奠」は、「幾度も仏前にお供えを施す」ということで、香り高きお茶を幾度も仏前に供え(傾け)て、故人様を丁重にご供養することを表しています。また、一本のお線香を真っ直ぐに立てれば、白い煙が白雲の天界に向かって、真っ直ぐに登っていきますが、それと同じように、故人様が道から逸れることなく仏界に奉送(お送り申し上げる)することを願い、和南(故人様に尊敬の念を捧げ、読経供養すること)させていただくことを表しているのが、この一句です。

こうした回向の内容をまとめてみるならば、故人様と縁深き者たちが、道を逸れることなく、只管に仏界を目指すことを願うものであることに気づかされます。すなわち、成仏を願う回向なのです。そして、ここでは、この世での一生を全うさせた一人の人間が、次はどこに向かい、どんな次生を送るのかが明確化されているのです。故人様は「仏界」という、これまでご縁のあった亡き人々(ご家族やお友達で亡くなられた縁者の方々)も向かった同じ場所において、新たないのちを輝かせていくというのです。

よく、「死んだ父ちゃんは、きっとあの世で先に逝ったじいちゃん、ばあちゃんと大好きだった酒でも酌み交わしているだろう」などというセリフを耳にしますが、その解釈はあながち、間違いではありません。また、こうした解釈を承認していくことによって、故人様の居場所が明確になり、残された方々にとっての、大きな安心にもつながっていくような気がします。