第10回「“自分のモノ”など存在しない!?」


我物(わがもの)(あら)ざれども布施(ふせ)()えざる道理(どうり)あり



私たちは決して、一人で生きているわけではありません。周囲には自分とは異種の様々ないのちが存在し、それらと関わり合いながら生かされています。

そうした「周囲のいのちどのように関わっていけばいいのか」という問いに対して、道元禅師様は「布施」というみ教えを提示されました。人に対しては「へつらわない」関わり方、モノに対しては「貪らない」関わり方、すなわち、周囲のいのちを大切にし、その存在を生かす「不殺生」の関わりが、「布施」であるということです。

こうした「布施」を説示する根拠を具体的に説明しているのが今回の一句です。布施の後は愛語(あいご)利行(りぎょう)同事(どうじ)と道元禅師様は4枚の般若(はんにゃ)について、説いていかれますが、それぞれ、まずはその意味をお示しになり、次にその根拠、そして、具体的な事例といった順で、徐々に内容を深めながら、み教えを説かれていきます。その説示方法と内容の深め方は聞き手にとってわかりやすく、かつ、説得力のあるもので、特に人様の前で法話や講演会の講師を務めさせていただく我々のような立場のものならば、よくよく学ぶべき方法でありましょう。

道元禅師様は「布施」を説示する根拠として、「この世に何一つとして自分の所有物がないからだ」とおっしゃっています。

そう言われると、疑問を感じる方が大勢いらっしゃると思います。なぜなら、私たちはごく当たり前に、周囲の人と自分との人間関係を築いたり、「自分のモノ」として手に入れた多くの品々を所有し、使用しながら、日々を過ごしているからです。誰も他者の所有物を使って生活している人はいません。

しかし、そんな私たちがいつか死を迎えるとき、たとえば、苦労して関係を築き上げてきた人々にしろ、深い愛情関係で結ばれている人にしろ、自分のモノとして使ってきたマイカーやスマホ、パソコンのような大きなものから、歯ブラシや靴、服といった小さな日用品にしても、この世で関係のあったすべての存在を「自分のモノ」として、全てあの世に一緒に持っていけるかというと、それは不可能であることに誰もが気づくはずです。


このことは、修証義第1章の中にもある「無常忽(むじょうたちまち)ちに至るとき国王大臣親(こくおうだいじんしん)ジツ従僕妻子珍宝(じゅうぼくさいしちんほう)たすくる無し。唯独り黄泉に赴くのみにおいても説かれています(詳しくは
こちらをご参照ください)。時間の流れと関わる中で、どんなに苦労して自分のモノにしたとしても、いつまでも自分のモノとして所有できなければ、自分のモノとは言えません。そもそも、そんなモノは存在しないのです。ですから、道元禅師様は全てが人間世界における預かり物であり、「この世に何一つとして自分の所有物がない」と説かれるのです。

だから、必要以上に人にへつらったり、モノを貪ったりする必要はないのです。お互いに周囲の存在を大切にし、少しでも成長して、仏に近づけるような関わり方をしていくことが、道元禅師様がお示しになった布施なのです。