(ごう)」について 
―改めて、“悪しき業論の克服”を再確認―
御仏のみ教えに従って、自分たちの未来を考えていく上で、「業」という仏教思想に触れておきたいと思います。

「業」とは・・・?
これは、私たちの行いを意味しています。一口に行いと申しましても、これまで様々な側面から捉えられてきたようで、たとえば、「身口意(しんくい)の三業」とは、私たちの行いが身(所作)・口(言葉)・意(心)から生ずることを意味しています。また、善業や悪業とは、私たちの行いの内容に関するものです。

何が善で、何が悪か・・・?

いつの時代も人間はこのテーマに悩み、中々、明確な回答を見い出すまでには至らなかったのではないかという気がします。その背景には、時代によって、善悪の内容が変化していることも関係しているでしょう。

しかし、時代が変われども、仏教が指し示す善悪の基準は
(1)仏のみ教えに従ったものかどうか
(2)皆が救われているかどうか

この2点から判断すべきなのです。

「業」を捉えていく上でのポイント
一つには「我がこととして捉えていく」ということです。
業は私たちの行いですから、自分の行いも他者の行いも全て含まれるのですが、どうも我々人間には、自分のことよりも他人の言動が目についてしまう習性があるようです。「あの人が今、苦悩しているのは、本人の過去の行いが悪かったからだ。」と―。確かに私たちは周囲の様々な存在と関わり合っていますから、その影響を受けるのですが、それをどう判断し、どう行動していくかを決めるのは自分です。「今の自分の幸・不幸は過去の自分の行いの結果であり、他人がしたことではない」―これはジャータカの一説です。是非、肝に銘じ、あくまで業を自分のこととして捉える習慣を持ちたいものです。

悪しき業論の克服″を再確認
かつて宗教界では、業を説くに当たり、特定の病を抱えている方々を事例に出し、「現世の苦しみは本人の過去の悪業の結果であり、同じような苦悩を味わいたくなければ、現世で善行を積むように」という展開の法話(悪しき業論)がなされました。そこには何ら明確な根拠はく、それによって、当該者が差別を受け、不当な苦しみを受けることになりました。その歴史的事実を忘れてはなりません。同様のことは、現代でも起こっています。特定の病のみならず、自然災害の被災地に対する根拠なき噂やデマがインターネットを通じて、あっという間に世界中に広がっていく時代です。こうした時代に生きる一人として、
悪しき業論の克服を再確認し、同じような人権侵害を繰り返さないようにしていくことが私たち現世に生かされている者の使命としておきたいものです。

次回は二つ目のポイントとなる「三時業(さんじごう)」に触れてまいります。 【第3話に続く】

高源院普度会にて
【H28.10.2】