第10回 「観音様の視点で」


病雀尚(びょうじゃくな)お恩を忘れず、三府(さんぷ)環能(かんよ)報謝(ほうしゃ)あり
窮亀尚
(きゅうきな)
お恩を忘れず、余不(よふ)印能(いんよ)く報謝あり
畜類尚
(ちくるいな)
お恩を報ず、人類争(じんるいいかで)か恩を知らざらん



修証義・第4章 第25回「利行A ―“亀と雀の恩返し”―」の中で、「窮亀(きゅうき)」と「病雀(びょうじゃく)」という古代中国の故事を紹介させていただきました。これらのお話は、捉われた亀やケガをして苦しんでいる雀と出会ったき、「何とかして自分が助けたい」という本能に催された孔愉や楊宝が、救いの手を差し伸べ、その後、恩返しを受けたというものです。

この故事に登場する雀や亀のような動物が自分の受けた恩を忘れることなく、しっかりと恩返しができたというのに、人間が恩返しをできないはずがないというのが、今回の一句が指し示す内容です。
たとえば、誰かから物品や金品、または、何らかの心温まる行為をいただくことがあります。そこには、自分に対する相手の善意や思いやりが存在しています。私たち人間は、自分の頭で考えたことや、心の中に感じ取ったことを基にして、各種行動に移す力を与えられているわけですが、そんな力を有した人間だからこそ、自分が一人で生かされているのではなく、周囲のいのちに支えられながら生かされていることを押さえ、毎日を過ごしていきたいものです。そして、そうした姿勢が、報恩感謝(恩に報い、感謝の意を届ける)につながっていくのです。

観音様という仏様がいらっしゃいます。正式なお名前は「観世音菩薩様(かんぜおんぼさつさま)」ですが、このお名前には、世音(せおん)(世間の人々の様々な思いや声)を、()(広く見渡し、深く見通すこと)ながら、的確に救いの手を差し伸べていくことができる菩薩(仏)様という意味があります。私たちがこうした観音様の如き広くて深い視点(観点)を以て、日々を過ごしていくとき、「報恩感謝」が成立するのです。

そんな観音様の如き視点で周囲を見渡していくと、いったい自分はどんな背景を背負い、どういう人生の道のりを辿りながら、今日(令和2年8月10日・月曜日)という一日を生かされているのかが見えてくるはずです。自分という存在は父と母という2人の存在によって、この世に生を受けました。ところが、自分の存在は、もっと突き詰めていくと、両親の両親、すなわち、私たちの祖父母や曽祖父・曾祖母の代へと順々に遡り、実に何人・何代ものご先祖様のつながりの中で、今の自分が存在していることに気づかされるのです。

そんな自分が、今日という一日を平穏に過していけるのは、その根底に長い長い年月と多くの人々の存在という基盤があるからこそなのです。そのことに、観音様の視点を意識しながら、ご先祖様への感謝の意を忘れずに過ごしていきたいものです。