第13回 「この世の仕組みを受け止める」
過ぎにし一日を
「光陰矢のごとし」という慣用句があります。「光陰」は「時間」のことで、時間は弓矢の如く、あるいはそれ以上のスピードで、あっという間に流れ去ると共に、二度と過去には戻れないということです。そんな性質を持った時間と私たちは関わりながら、その中で私たちは、老いや病といった変化にさらされ、最期には死を迎えるのです。そんな私たちのいのちについて、第1章・第10回では、「
これらを踏まえ、道元禅師様は「光陰は矢よりも迅かなり、身命は、露よりも脆し」とおっしゃっています。あっという間に未来に向かって過ぎ去っていく時間との関わりの中で、誰もが「露命」という性質を有したいのちを生かされていることを今一度、再確認しておきたいところです。
そんな私たちが仮に、「過ぎにし一日を復び環し得たる」とあるように、人生をもう一度過去からやり直してみたいと願ったところで、それは不可能です。いくら悟りを得た偉大なる仏や神も、過去を取り戻す力は持っていません。「善巧方便」とあるのは、「仏が人々を善き方向・救われる方向に向くように教え導くための方法」を意味しています。仏は我々凡夫が日々の生活の中で抱えた苦悩を救うべく、様々な手段を講じながら、救いの手を差し伸べてくれる存在です。しかし、そんな仏でも、私たちが過去からやり直したいと切に願い、仏の力にすがろうとしてきたとしても、何らかのな方法を巡らせて、時間を操作すること(時間を止めたり、過去に戻ったりすること)はできないと道元禅師様はおっしゃいます。それが「何れの善巧方便ありてか」の意味するところです。
一見したところ、お釈迦様始めとする仏様は、我々凡夫の能力をはるかに超えた特別な力を有した存在のように思われるかもしれません。たとえば、「過ぎにし一日を復び環し得たる」とあるように、時間を操作できたりとか、あるいは、亡くなった方を生き返らせるような、人間の寿命を調整したりといった、摩訶不思議な力があるように見えます。しかし、仏はそんな力を有した存在ではありません。あくまで私たちと同じ人間でありながら、人間世界の仕組みを悟り、人間としての生き方を体得した最上の方であり、我々の模範たる存在なのです。自分の思い通りにしようと、仏は自分に都合のいいように人間世界をコントロールしたり、嘘の世界や思想を作り上げたりするようなこともしません。現実をありのままに受け止め、その上でどうすべきかをお示しになっているのです。
そうした仏様のように、自分勝手なものの見方で、都合のいい捉え方をするのではなく、この世の仕組みを悟り、この世の道理をありのままに受け止め、その中でどうやって生きていくのかを考えていけるようになるのを願うばかりです。そうなることで、より豊かで深みのある日常が訪れるのを願います。