第16回 「仏性(ぶっしょう)に気づく ―“自己の明珠(みょうじゅ)”を磨き続ける―


此一日(このいちにち)身命(しんめい)は、尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸(けいがい)なり


「たった一日であったとしても、仏道修行に励むことができたならば、それは本当に尊いことである」というのが、今回の一句の内容です。

長寿の可能性が保障された社会の中で生かされる私たちが、自分は長生きできると勝手に思い込み、できることを後回しにして、日々を無駄にダラダラ過ごすことは慎むべきことです。そして、一日一日を大切にして、少しでも仏様に近づけるよう、「怠けず」に我が身を磨き続けていくことが、仏教が指し示す人間の生き方であることを押さえておきたいものです。

禅語に「明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」という言葉があります(詳しくはこちらをご覧ください)。明るい珠(宝物)というのは、簡単に手が届かない、どこか遠くの場所にあるように感じるかもしれませんが、実は、我が手中にあるというのです。求めているものが遠くにあるのではないかと思って求めてみても、遠くになければ、見つけることなどできません。なぜならば、元々、遠くにあるはずがないのですから。それなのに遠くにあると思い込んでいると、見つけられない焦りからか、自分の心がコントロールできなくなるのです。それが三毒煩悩(貪り・(いか)り・愚かさ)の発生へとつながっていくのです。

明珠は、元来、誰しもを持っています。そんな明珠を「仏性(仏になれる可能性)」と捉えることもできるでしょう。明珠(仏性)が自分の中にあることに気づいた上で、外に求めるのではなく、内に求めていくのです。それが「只管に自己の内面を磨くこと」なのです。明珠(仏性)は怠けることなく、磨き続けなければ、永遠に輝くことはありません。そのことをしっかりと我が身に念じ込んでおきたいものです。

こうした生涯に渡る「自己の中の明珠磨きの継続」によって、汚れていた珠にも輝きが増します。それが「仏に近づく」ということであり、「精進」ということなのです。