17回 「行持による成仏 −自らを愛し、自らを敬う―


此行持(このぎょうじ)あらん身心自(しんじんみずか)らも愛すべし、自らも敬うべし


明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」とあるように、誰もが明珠という明るい珠を持っています。明珠は「仏性(仏になれる可能性)」ということでした。

そもそも、お釈迦様は100歳までの寿命をいただいていました。それなのに、そこから20年分のいのちを削り、後世に生きる全ての人々に施されたというのです。ということは、私たちの身体の中にはお釈迦様からいただいたいのちが刻み込まれていることになります。私たちはまさに、仏のいのちを有した存在だということなのです。

そうした我が身が仏のいのちを有した存在であることが確認できたならば、仏道修行に励むことができる我が身、仏のみ教えに従い、仏に近づける自らの存在を愛し、敬いながら、日々を過ごしていこうというのが、今回の一句が指し示すものです。「行持」という言葉が出てまいります。修証義第5章のタイトルにも用いられているこの言葉は、第7回でもご説明させていただきましたが、仏のみ教えに従い、そのお悟りに近づくことです。

私たちは、各々の心がけによって、善しも悪しきも、どんな生き方でもできるでしょう。そんな私たちが目指すべき生き方について、仏教の立場から申し上げるならば、「行持による成仏」です。「成仏」は、「仏に成る」ということです。「成仏」は、一般的には死後の世界のことと捉えがちですが、むしろ、いのちある今こそ、私たちが目指すべき課題なのです。

そうした「行持による成仏」を、「仏のいのち」をいただいた者の一人として、心がけていくと共に、仏性を有する自分という存在を敬愛し、大切にしていきたいものです。