第2回「道元禅師を“教化”した人A ―文字と修行―

文字とは何か―?

仏道修行とは何なのか―?

中国に入ったばかりの道元禅師様にとって、寧波(にんぽう)に停泊中の船中にて出逢った61歳の阿育王寺(あいくおうじ)典座老師(てんぞろうし)とのやり取りは衝撃的なものでした。この入宋間もない段階で非常に味わいのある問答を交わせる人物とのやり取りができた背景には、道元禅師様が23歳という若さでありながらも、相当の実力を有した仏道修行者であったことを意味しているように思います。そんな道元禅師様だったからこそ、自然と導かれるように人間的魅力のある人物が集ったのではないかという気がします。

そんな出来事から2カ月が経過した7月。道元禅師様は天童山・景徳寺(けいとくじ)で仏道修行に励んでおられました。そこに、かの僧が道元禅師様を訪ねていらっしゃいました。僧は阿育王寺での修行を終えて、故郷の四川省に帰る決意をなさったそうで、その前に一目、道元禅師様にお会いしたいと、仲間から所在を聞いて、訪ねてきたとのことでした。

前回、僧の人生について触れました。僧は故郷を離れて40年。その間、あちこちのお寺を渡り歩いて仏道修行に励まれたという、まさに、修行一筋の人物です。そんな僧にとって、40年もの長きにわたる修行を一段落させることは、あたかも40年に渡って一つの仕事に従事したサラリーマンが定年退職するようなもので、仕事に対する愛着ゆえの別れの辛さもあったのではないかと思います。それらの感情を全て清算し、天童山の門をくぐった僧―その心情を考えるに、道元禅師様のみならず、実は僧も道元禅師様との出会いに大きな衝撃を受け、どうしても最後に一目お会いしたいと思うくらいに、道元禅師様を求めていたのではないかと思うのも、あながち考え過ぎではないような気がします。

僧の来訪にこの上ない喜びを感じた道元禅師様は僧を接待し、しばし、談笑しました。話題はすぐに2ヶ月前に交わした文字と修行の話になりました。

僧はおっしゃいました。「文字とは一二三四五。修行(弁道)とはこの遍き世界は全然何も蔵さず」と。すなわち、文字というのは「一二三四五であり、修行はすべてがこの世界の中に現れている」と僧はおっしゃるのです。

さすがに40年もの間、仏道修行一筋に生きてこられた方のお言葉だけあって、非常に深遠なものを感じます。私のような未熟な者には理解できぬほど、奥深いものをもった尊いお言葉ではないかと思いますが、未熟者なりに解釈していくに、たとえば、紙に一二三四五と書いてあったとすれば、それは一二三四五という文字が紙に書かれてあるというだけで、その場合の一二三四五は文字でしかなく、文字以上のものでもありません。

大切なのは、そうした文字を文字とだけ捉えて終わるのではなく、文字の周囲や背景にあるものを様々な角度から眺めながら、しっかりと掴み取っていく姿勢を持つということです。それが物事を味わうということであり、そういう関わり方や姿勢が仏道修行に求められるというのです。

万事は一面的なものではなく、多面的なものです。それらは全て包み隠されることなく表れているのですが、私たちは自分の考え方や好みに捉われて、好きなものは受け入れることができても、嫌いなものは遠ざけてしまいます。それゆえに、中々、本当の姿を見ることができないでいます。一面的な見方をして、悪いところばかり見るから、物事の価値に気づかないのです。多面的な視点を持つことができれば、いいところも悪いところも見えてくるのです。表面的に文字だけを見て、あれこれ判断するのではなく、周囲や背後の状況も合わせて多面的に文字を見ていくという視点を文字のみならず万事において持っていきたいものです。そうした相手の価値を大切にしていくという姿勢を阿育王寺の典座老師から学んでいきたいものです。