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5月は金沢市内にある2カ寺のご寺院様で「
そんな普度会の法話内容に頭を巡らす中で、ふと、たどり着いたのが、今回の演題にもある「布施」という仏教用語です。この言葉は一般的には「仏事供養をしていただいた僧侶に支払う謝礼」という意味で使われているようです。
ところが、曹洞宗の開祖・道元禅師様は「布施といふは、貪らざるなり、へつらわざるなり」とおっしゃっており、一言も僧侶への謝礼とは説いていらっしゃいません。「布施とは(モノを)貪らないことであり、(人に)媚びへつらわないことである」―「布施というみ教えは私たちの周りに存在する人やモノとの関わり方を説いたものである」というのが道元禅師様の布施に対するお考えなのです。
私たち凡夫の眼(肉眼)は、自分の周りに存在するモノや人に対して、自分の好悪や都合で序列をつけてしまいます。「あれはよくて、これはダメだ」という具合で―。
それに対して仏の眼(仏眼)は選り好みをしません。なぜならば、仏道という仏の道を成就することに全身全霊を傾けるので、周囲の全ての存在が仏であり、仏道成就の大切なご縁であると捉えることができるからです。
そうした仏眼を持って日々を過ごしていくならば、モノに対して、見た目の良し悪しや価値のあるなしといった個人的な見方でモノを貪るようなことをしません。また、人に対して、相手の地位だとか性別といった見た目の情報に左右されて、相手との関わり方を変えるようなこともありません。「貪らざるなり、へつらわざるなり」と教える「布施」の根本には、物事を平等に見ようとする仏眼がなくてはならないことに気づかされます。私たちは少しでも自らの肉眼を育て、仏眼に近づけるような日常を過ごしていきたいものです。
そうした仏眼を育てていく上で、「普度」という、お互いに助け合って生きていくという観点を持って日々を過ごしていくことは大切なことです。「布施」を行ずることができる人は、「普度」を行ずることができる人であり、「布施」は「普度」につながっているのです。
持ち手が長いスプーンがあったとします。誰もがそんなスプーンをもっていて、その先には飴玉が入っています。そのスプーンの長い持ち手をがんばって自分の方に向けなければ、飴玉を食べることができないのですが、スプーンの先が長すぎて、飴玉が口の中に入りません。
いくら自分の口の中に入れようとしても入らない飴玉を、私たちはどうすれば食べることができるのでしょうか・・・?
そのためには、自分の口の中に何とかして入れようとすることに捉われるのを止め、視点を変えて、相手の口の中に入れてみるのです。相手も同じ長いスプーンを持っていて、自分の口の中に入れようとしても入らずにもがいています。それならば、お互いに自分の口の中に入れようとする不可能な行いを止めて、お互いに差し出しあって飴玉を食べる―それが「普度」という助け合いなのです。
こうした助け合いは、飴玉を自分のものだと貪っていては実現できません。人によって飴玉を与える人とそうでない人を分別しているようでは助け合いになりません。「普度」と「布施」は相互につながっているのです。「普度」の心なき「布施」という仏行は成り立たず、「布施」の心なき「普度」という仏行もあり得ないのです。
「普度会」というご法要を通じて、お互いに自分の持っている長いスプーンの先にある飴玉を差し出しあえる関係性を築けるようになりたいものです。