霊松居士の「功績」


普度会に関して、現存する数少ない資料の一つに、「普度会起源台簿」があります。その序文となる「募水陸会無尽財化薄序(以下、序文)」は、1842年(天保13年)に“鼠猫野人焚香識”(詳細不明)なる人物によって記されたもので、1835年(天保7年)に始まった普度会の起源や普度会開始から7年間の状況等が端的にまとめられています。

序文の中に、こんな一句があります。

霊松居士(れいしょうこじ) 通称能登屋又五郎(のとやまたごろう) 真実至誠心(しんじつしじょうしん)(おこ)して慳囊(けんのう)を傾けて出世の舟航(しゅうこう)となす (すで)に白銀七十五枚を出して為無尽財(いむじんざい)と其の銀を以て犀川以東の諸尊宿届請(しょそんしゅくかいしょう)して」

これは「霊松居士(通称能登屋又五郎)は天保の飢饉による悪病・疫病の流行で苦しむ人、天候不順による凶作で亡くなった人に対して、心の底から沸き起こる「助けたい」という一心で、自ら所持していた財を出し、人々を救うために使った。そして、その清らかなる銀七十五枚(正確な金額は不明)を使って犀川より東側の曹洞宗寺院の僧侶を集めて供養法要を行った」ことが記されています。

霊松居士は天保期の新興町人層で、現在の馬場小学校周辺に屋敷を構える相当の有力人物だったそうです。おそらく、霊松居士は自分の屋敷に近い東山や小立野などの曹洞宗寺院の僧侶に声をかけ、自ら音頭を取って法要を行ったのではないかと考えられます。

今回、提示させていただいた序文の中で、注目すべきは「慳囊」と「白銀七十五枚」です。

「囊」は“袋”のことです。袋は自分の所持品や大切なものを保管するのに使われます。そうした袋を表す「囊」に“堅い”とか、“惜しむ”という意味を持った「慳」がついているということは、飢饉で誰もが苦しむ中、もし、自分に財があるならば、普通はその財を自分が救われるために使うであろう。ところが、霊松居士は自分のために使うのではなく、周囲の人々のために使ったことを意味しているのです。誰もが財宝が入った袋の口を固く縛ってまで出し惜しみをしたくなるような状況の中、霊松居士は自らも苦しみながらも、一切、面に表さず、慳囊を傾け、人々が救われるのを願ったのです。これぞ、霊松居士の功績です。

そして、「白銀七十五枚」。残念ながら、正確な金額やその多少は不明ですが、そういう点は問題にすべきではないと思います。単に金額を表現するだけならば、銀七十五枚でいいところを、“清らか”とか、“尊い”という意味を持った「白」という文字がついている点に大きな意味があるように思います。これは霊松居士の尊き行いや、ただひたすらに他の幸せを願う純粋な気持ちが強く表れている気がします。

天保の飢饉の被害が最大のピークを迎えたと言われる1835年~37年という時代に生きた霊松居士―その功績が、7年近い歳月が流れた1842年(天保13年)に第三者の視点で描かれいることは、計り知れない価値があるように思います。それは天保の飢饉を主軸とした7年間の記録であるだけではなく、そこに生きた一人の人間が施した尊い御仏の行いの物語なのです。

計らずも、去る4月14日に「熊本地震」が発生し、5月12日現在も熊本では余震が続いています。180年前から見れば、科学技術も発達したはずなのに、一度、災害が発生すると、電気やガス、水道などの
生活のライフラインがストップしてしまうのですから、災害を前に、過去も今もないのかなと思ったりします。やはり、自然の力は大きくて、我々人間の力が及ぶものではないことを感じずにはいられません。

5年前に発生した「3.11大震災」の記憶も冷めやらぬ今、霊松居士が遺された功績である「普度(助け合い)」の意味をそれぞれが考え、日常生活の中で周囲の人々と支え合い、お互いに労わりあいながら日々を過ごしていきたいものです。度重なる自然災害を前に、「助け合い」の意義が問われ、再確認しようとする動きも多々見受けられます。今こそ、霊松居士の功績に思いを馳せ、お互いに支え合い、助け合っていく大切さを確認しておきたいものです。。