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曹洞宗の特徴の一つに、宗派の祖師と呼ばれる方がお二人いらっしゃることが挙げられます。お一人は
道元禅師様は中国に渡り、禅のみ教えを体得され、日本に根付かせた曹洞宗の開祖です。道元禅師様がお開きになった福井県の永平寺は曹洞宗の大本山として、日夜、大勢の修行僧が仏道修行に励んでいます。
そんな道元禅師様のみ教えに深く帰依し、日本全国に広めるきっかけを作られたのが瑩山禅師様です。瑩山禅師様を慕い、明峰禅師様(1277−1350)や峨山禅師様(1275−1366)などの修行熱心な高僧方が集い、次第に曹洞禅が広まっていきました。瑩山禅師様がお開きになった總持寺(現:神奈川県横浜市鶴見区)もまた、永平寺と同じ曹洞宗の大本山で、住職もかつては1年ほど、修行をさせていただいた思い出の地でもあります。
祖師がお二人、ご本山が二つという、他の宗派に例を見ない特徴を持った曹洞宗の見解からは、開祖(創始者)のみならず、そのみ教えや願いを発展させた人物をも同様に帰依するというものが感じられます。そして、それが普度会にも見受けられます。
普度会の開祖は天保の大飢饉の真っただ中で、周囲で苦しむ人々を救い、亡くなった方々を供養しようと、多額の資金を喜捨した
こうした玄那莫道師のご生涯に触れるに、30代の若き青年僧でありながらも、格式のある寺院の住職を歴任されるほど、周囲からの信頼の厚い、修行熱心な人物であったことが想像できます。人物評価は、決して、年齢が若いとか、経験が浅いからとか、そうした表面的な部分だけで判断できるものではありません。年齢や経験に関係なく、普段からの弛まぬ仏道修行によって、周囲を納得させられるだけの能力なり、お人柄を有しているということも大切な判断基準となります。そうした総合的な見解から、玄那莫道師は評価の高い僧侶だったのではないかと思われます。そういう意味では、現在、玄那莫道師と同年代を生きる住職にとって、手本とすべき僧侶のお一人でもあります。
そんな玄那莫道師だったからこそ、普度会が金沢市内全域に広まったことはいうまでもありません。それが明治8年(1875年)のことだったそうです。その後、今日までの約140年−普度会は絶えることなく続けられています。開祖・霊松居士の願いを大切に、玄那莫道師の労力に敬意を表しながら―。「両祖様」を帰依するがごとく、普度会においては、霊松居士と玄那莫道師を敬う姿勢が大切なのです。
こうした過去に生きた人々が願った「普度」という「人間同士がお互いに助け合いながら生きていくこと」の大切さを噛みしめ、少しでも周囲と和合しながら日々を過ごしていくことが普度会の開祖に報いることにつながっていくのではないかと思います。