「二尊居士のチカラ −“善の灯火”を受け継ぐ−


1835
年(天保6年)、天保の大飢饉で亡くなった方々を供養すると共に、飢えや疫病で苦しむ方々に救いの手を差し伸べんとして、能登屋又五郎(のとやまたごろう)氏(宝月霊松居士(ほうげつれいしょうこじ))が多額の私財(現在の金額に換算すると450万円ほどか?)を投げ打って、始めたと言われる「普度会」は、180年経った今も途絶えることなく続けられています。

しかしながら、この“善の灯火”は常に煌々と輝き続けていたわけではありませんでした。普度会の起源を記した「普度会起源台簿」によれば、実は、比較的、初期の段階で普度会の存続が危ぶまれたこと記載されています。

()た恨むらくは闔城(こうじょう)諸尊宿合請(しょそんしゅくごうしょう)して無遮(むしゃ)大会(たいえ)を修せんとすれとも財乏して力らたらす」

当初、能登屋又五郎氏の声かけで。普度会に携わったとされる浅野川地区の僧侶方は、何とかして、その意思を継いで普度会を存続させようとしたものの、財力に乏しかったがために、その存続が危ぶまれたというのです。

この背景には、普度会を始めた能登屋又五郎氏が1837年(天保8年)1月に他界されたことが大きな影響を及ぼしていることが伺えます。何をするにしても資金がなければできないのが現実なのかもしれません。

しかし、この台簿は以下のように続くのです。

二尊居士(にそんこじ)か志を継て有志の道俗或多或少随分隻手(どうぞくあるいはたあるいはしょうずいぶんせきしゅ)を展開せよ」

資金が乏しかった普度会を、ある二尊居士(二人の僧侶)が音頭を取りながら、出家者・在家者関係なく皆で協力し、分相応の形で継続したというのです。

起源台簿を読みながら、普度会が今日まで存続できたのは、資金の力だけではなかったことに気づかされます。資金の存在もさることながら、それを上回る存在によって、消えかけた善の灯火が再び輝きを発したことは台簿から明らかに読み取れるのです。

その大きな存在とは、今回の二居士のように亡き能登屋又五郎氏の願いや思いを汲むと共に、自分たちは僧侶として何ができるのかを真剣に悩み、考えられた方々の存在です。それは出家した僧侶の姿であり、仏教徒として、仏法僧の三宝に対して深く帰依する仏道修行者としての姿なのです。

この二居士は、第二の能登屋又五郎氏として、恐らくは、それぞれのお寺の檀信徒に声かけし、その協力をいただくなどして、普度会が再興したのではないかと推察されます。そこには資金的な援助もあったでしょう。しかし、それだけではなかったはずです。二人の僧侶の善いことを人々のために続けていきたいという強い信念と、周囲の人々の心を大きく動かすほどの尊いお姿があったからこそ、普度会が再興できたのではないかと思います。もし、そうしたものがなければ普度会はその初期のみのわずかな歴史で幕を閉じ、後生の私たちも知るところではなかったのではないかという気がします。

180年経った今、私たちの眼前にしっかりと受け継がれている普度会―その善なる面を重視し、普度会が多くの檀信徒の方々にとって、仏さまとのご縁をつなぎ、仏のみ教えと共に充実した日々を過ごすきっかけとなるよう、私たち僧侶は普度会に向き合い、日々の修行を精進していかなければならないように思っています。善の灯火を絶やすことなく、未来にも伝えていけるように・・・。それが私たち金沢市内に生きる曹洞宗の僧侶に与えていただいた使命なのかもしれません。