第2回  「坐禅を味わう前に −思い込みを捨てる―」


「GIVE AND TAKE」(ギブ アンド ティク)―「相手に何かをすれば、自分もその恩恵をいただくことができる」―この言葉は、我々の日常的な思想の一つです。

「何かをしたら、何かを得ることができる」
つまり、「自分たちの行為は、必ず何か目的を持った上で行っている」ということです。たとえば、「生きていくために働く」とか「大学に行くために勉強する」とか・・・。一般社会においては何ら否定されることのない当然の考え方です。

そうした一般通念を仏道の世界に持ち込むのはどうなのでしょうか・・・?

坐禅を志される方には、「精神修行のために」とか「美容のために」といった目的を持って、始められる方がいらっしゃいます。しかし、坐禅とはそんな「GIVE AND TAKE」とは正反対の、無目的な行為です。何か目的を持って、いざ坐禅会に参加しても、そこでは、自分たちが思い描いていた目的は、はかなくも打ち砕かれてしまうのです。そこが、坐禅が「難しいもの」と思われ、なかなか継続できない理由であります。

そんなお話をしていますと、「せっかく目的を持って坐禅に取り組んでいるのに、それが達成できなければ意味がないではないか!!」というご意見が聞こえてきそうですが、そうした考え方が問題なのです。最初から自分の頭の中に描いた目的にとらわれて坐禅に取り組んではならない。「やりながら気づいていく」、「やっていくうちに作られていく」これが坐禅です。つまり、最初から目的を持って取り組むものではなく、目的も期待も持ち込まない「0」の状態からスタートして、一歩一歩、自然に完成されていくものなのです。

「やってみないと納得できないことを、やっていくことでお釈迦様のお悟りに近づける」−それが坐禅はもとより、仏道の基本です。最初に思い描いていたものはお釈迦様の前で簡単に打ち砕かれます。しかし、それでも諦めず、納得いくまで坐禅に喰らいつくのです。そうすれば、必ずお釈迦様のお示しになられたこの世の道理が正しく見えてきます。そして、それが自分の身心に安楽を与えるのです。

坐禅を味わう前に、まずは自分の坐禅に対する思い込みは捨ててしまうのです。そして、前編でもお話したとおり、「調心(ちょうしん)」「調身(ちょうしん)」「調息(ちょうそく)」という「心」と「身体」と「呼吸」を調えることに専念します。そうやっていくうちに、何か新たなものに気づき始める―それが「坐禅」なのです。

次回より、いよいよ「普勧坐禅儀」の内容を味わっていきます