三時業(さんじごう) 
―未来に何を願うのか? 今、何をすべきなのか?―
「善悪の(ほう)に三時あり。一者順現報受(ひとつにはじゅんげんほうじゅ)二者順次生受(ふたつにはじゅんじしょうじゅ)三者順後次受(みつにはじゅんごじじゅ)、これを三時という」(修証義第1章 總序)

これが「業」を捉えていく上での二つ目のポイントです。
業(自分たちの行い)の報いをいのちある現世にて受けるのが順現報受、来世に影響が出るのが順次生受、来来世以降に影響が出ることを順後次受と修証義では示されています。

近年は「子孫に迷惑をかけたくないので、自分たちのことは自分たちで行う」という考え方が市民権を得ているようですが、そこに仏教が説く「業」の思想が入っていくといいように思います。すなわち、自分たちの善悪双方の行いが子孫たちに善悪の影響をもたらしていくことを押さえ、日々を過ごしていくことが大切であるということです。

それを体得することができるならば、今こそ少しでもみ仏のみ教えに従って、我が言葉や行いを正し、日常生活を調えていくことが、子孫たちに明るい未来を提供することにつながっていくと共に、私たちの使命であるという結論に至るのです。

「お寺の後継者問題」を考える
子孫について、住職には長女(小6)、長男(小3)、次男(小1)がいます。人は男の子が2人もいるから跡取りには事欠かないとおっしゃいますが、試しに2人の息子たちに将来、僧侶になるかどうか聞いてみると、声をそろえて「イヤだ!!」と元気よく回答します(笑)小学校低学年の子どもにそんな質問をすること自体がナンセンスだとは思いますが・・・汗 
そもそも、住職自身がお寺に生まれながら、跡を取るのが嫌で、学生時代は教職を目指しました。しかし、教育実習で現役教職員の大変さを目の当たりにし、自分のような甘い考えの人間では現場に迷惑をかけると考えて、挫折し、お寺の跡を継ぐ決意をしました。人生は何が起こって、どうなるかわからないものです。ですから、私は子孫たちには、自分たちの意思を大切にして、人生を歩んでいけばいいと願っています。

お寺の長い歴史の中で、この100年ほどはお寺に生まれた男の子が、いつの間にか所定の儀式を行い、跡を継ぐことになるという形で寺院運営が続けられてきました。そこではお寺に生まれた子どもが、自分たちの意思で将来を決めていくという場面は、皆無に近かったと言われても仕方ありません。

こうしたやり方でお寺の歴史が今日まで存続できたということも事実なのですが、個人の意思を尊重し、他者の意見を強引に押し付けることを激しく批判する風潮が強い中で、こうしたやり方が今後も通用するとは思えません。親子間のトラブルにつながり、跡を継ぐはずの者が他の道を選んでしまうことにもつながりかねないでしょう。

「お寺離れ」という言葉が叫ばれている今日この頃、檀信徒がお寺に魅力を感じず、お寺行事に参加しなくなったり、葬儀の簡略化、墓じまい等、様々な場面が見受けられますが、お寺に生まれた子孫たちが自分たちの生まれたお寺に魅力を感じることができず、別の道を歩むことも「お寺離れ」ではないだろうか・・・?あるお寺のご住職様のお言葉です。合点がいきます。

今の私たちがお寺を守る上で、欠かすことのできない、当然と思ってやっていることも、もしかしたら、子孫たちには苦痛に感じることかもしれません。子孫たちにとって、お寺が麩の財産にならないようにするためには、どうすればいいのでしょうか?

住職の使命を全うする

そのためには、住職こそがみ仏のみ教えに従い、言葉や行いを正し、自らの生き方を調えていくことが求められてくると考えています。何百年、何十代に及ぶ歴史を抱えた寺院を今、お預かりしている者の責務とは、そのまま次世代に継承していくことです。次世代を担う人間にお寺や仏教の魅力を伝えていくためには、今の私たちの生き方が問われることでしょう。そして、それが「業」ということなのです。          【第4話に続く】