放てば手にみてり
コロナ騒動によって、計画されていた企画やイベントの見直しが迫られる場面も多々ありました。それは私共、僧侶の世界も例外ではありません。
ある僧侶の会でのことですが、私は役員の一人として参加させていただき、コロナ禍の中、今後の法要・行事をどうすべきか検討させていただきました。「考えられる対応を全て洗い出していこう」という流れの中、様々な意見が出たのですが、どの方法にも何らかの問題点等が認められ、結局、結論を見ることのないまま散会となってしまいました。「先を見据え、様々な方法を洗い出しても、却って混乱を深めるだけではないか―?複雑かつ多岐に渡る対応策を果たして役員以外の会員の賛同を得られるのか、そもそも当の役員も把握できるのだろうか―?」帰路の車の中で思ったことです。
東京オリンピックの開催延期が決定される数日前のことでした。全日本アーチェリー連盟の理事会が開催され、オリンピックが中止もしくは延期になった際の対応策が協議されたそうです。
その席上で連盟の理事長である宮崎利帳氏が「IOCなどが開催と言っている限りは、そのまま準備を進める。先走った判断はできない」とおっしゃいました。私も宮崎理事長のご意見に賛同します。自然に任せてみればいいのです。多くの人が自分の専門外の分野にも情報のアンテナを張り巡らせ、頭を駆使し、苦悩しながら対応策を協議していますが、その背景には「せっかく準備してきたのに」という、これまでの苦労を無駄にしたくない、労力は報われたいという個々の思いが蔓延っているような気がします。‶せっかく~したのに〟という思いが我が身を自然に委ねることなく、先を見過ぎた先走りにつながり、弊害となっていることも知っておくべきではないかと思います。
実際にコロナが騒がれ始めた2月・3月は多くのお寺の法要が中止・自粛となり、私もご依頼をいただき、準備していた法話が全てキャンセルとなりました。飲食店でも歓送迎会のシーズンなのに、全てがキャンセルになったという報道もありました。これらは‟コロナ禍”ということなのかもしれません。正直、私も法話がキャンセルになったとき、「せっかく準備したのに」という思いが芽生えなかったわけではありません。しかし、見方を変えれば、そうやって準備してきたものを、思い切って捨てる練習になったと思っています。準備したものをいつか発表できるときが必ず来ます。それまでは毎日、仏のみ教えと共に生き、仏を目指して、コツコツと精進していきたいものです。
そして、私はそうした中で、大切なことに気づかせていただきました。それは依頼をいただいて準備するから、役目を果たすことが目標になってしまい、今回のように依頼の執行という目標が達成できなかったときに、「せっかく準備したのに」という思いが出てくるのではないかということです。目標を達成するために事を進めるのではありません。何もなくても普段から道を歩む中で、依頼があれば、しっかりとつとめさせていただければいいのです。
大切なことは「日常をどう生きるか」ということです。ふと、お釈迦様の最期のみ教えの中の一説である「昼は勤心に善法を修して」が思い出されます。自然の流れに逆らわず、我が身を委ね、日々精進していきたいものです。 【第5回へ】
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