第1回「道元禅師様を“教化”した人@ 
阿育王寺(あいくおうじ)典座老師(てんぞろうし)


日本曹洞宗の開祖で福井県にある曹洞宗の大本山・永平寺をお開きになった道元禅師様(1200−1253)―その偉大さや尊さは誰もが認めるものでありましょう。

しかし、道元禅師様自らが著書・正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)渓声山声(けいせいさんしょく)」の中で、「仏祖の往昔(おうしゃく)我等(われら)なり。我等が当来(とうらい)は仏祖ならん。(仏祖と呼ばれる方々も最初は私たちと同じような凡夫であった。しかし、日々を大切に仏道修行に精進したから仏祖と呼ばれるまでになったのである。)」とおっしゃるように、最初から偉大だったわけでも優れていたわけでもありませんでした。そこには多くの人との出会いがありました。また、人からの教えもありました。多くのご経験にそうしたものが積み重なって偉大な人格を有する禅僧となられたのです。

そうした道元禅師様の人格形成に大きな影響を与えたある3名の“人物”に焦点を絞り、数回に渡ってご紹介させていただきたいと思います。

1223年3月、京都の建仁寺(けんにんじ)で仏道修行に励んでいらっしゃった道元禅師様(当時23歳)は師事なさっていた明全(みょうぜん)和尚(栄西禅師の高弟)と共に仏法を求めて中国・宋に渡られました。今とは違って危険が伴ういのちがけの渡航であったことは言うまでもないでしょうが、宋に到着後、しばし、入国手続きに時間がかかったのか、道元禅師様は寧波(にんぽう)の港で、しばし船中にて過ごさざるを得ない時期があったようです。

そんなとき、宋の阿育王寺(あいくおうじ)典座(てんぞ)(修行僧の食事作りを担当する僧)が船に同乗していた日本人の商人を訪ね、倭椹(わじん)(桑の実?)を求めました。僧は年齢61歳。故郷である四川省を離れ40年、各地の修行道場を訪ね歩きながら、現在は阿育王寺で修行に励んでいるとのこと。今日は約20キロの道のりを歩いて、明日の「五の日(特別の説法の日)」にちなみ、修行僧たちに振る舞ううどんの汁に使う材料を買いにやって来たとのことでした。

それをお聞きした道元禅師様は僧の姿に深く感動し、これも仏縁と僧を船内に引き止めました。しかし、僧は明日、典座としてやるべきことがあると固辞しました。すると、道元禅師様は「他の僧にお任せしてはいけないのですか?」と問いました。それに対して、僧は「典座の修行は60歳を超えた自分に与えられた“老いらくの仏道修行”ゆえに、他人に任せるわけにはいきません。」とおっしゃったのです。

この僧の答えに仏道修行とは「坐禅」や「祖録(祖師方が記した仏法に関するみ教え)を読むこと」だと思っていた道元禅師様は、大きな衝撃を受けたのでしょう。そんな道元禅師様に更に追い討ちをかけるように僧はおっしゃいました。

「外国の若き僧よ、あなたは文字や仏道修行というものを深く体得できていないようだ。」

道元禅師様は僧に問いました。「文字とは何ですか?修行とは何ですか?」

すると、僧は「機会があれば阿育王寺においでください。一度、ゆっくりと話しましょう。」と言って、その場を去りました。

文字とは何か―?

仏道修行とは何なのか―?

その問いに対する回答が2か月後の7月、道元禅師様が僧との再会を果たしたときにその口から伝えられることになります。次回、その内容について、具体的に触れていきたいと思いますが、“老いらくの仏道修行”という言葉にあるように、自らにいただいた仏縁と真摯に向き合い、いのちある限り、縁がある限り、一生懸命、つとめさせていただこうとする僧の姿に文字や修行のヒントが隠されているような気がします。また、そういう人の心を打つ姿を自ずと発することができる僧の生き様こそ、仏道修行者の生き様ではないかと感じずにはいられません。