第3回「道元禅師様を“教化”した人B ―西川(せいせん)の僧―」


道元禅師様が中国でご修行中に出会った「西川(せいせん)の僧」なる人物―その僧の具体的な経歴等ははっきしていないのですが、この僧とのやり取りを通じて道元禅師様が得られたものは非常に大きなものであり、そのときの様子や道元禅師様の心情が後に道元禅師様の口からお弟子様方に語られたことが、「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」の中から伺えます。

中国で古人が書き残した書物を読んで仏法とは何かを研究する道元禅師様。中国で少しでも多くのことを学び、日本に持ち帰って、悩み苦しむ人々を救いたいという情熱に燃える道元禅師様は必死になって書物を読み解きながら、仏道を学んでいらっしゃいました。

そんな道元禅師様のもとにやって来たのが西川の僧でした。西川の僧は書物を熱心に研究する道元禅師様の姿を見て「それが一体、何の役に立つのか?」と問われました。古人が書き記した仏法に関する言葉を少しでも頭の中に叩き込もうとしていた道元禅師様にとって、西川の僧から投げかけられた問いは想定外のものであり、その驚きも大きかったに違いありません。「日本に帰って多くの悩める人々を仏法の力で救いたい」という思いを西川の僧に伝えようとしました。

しかし、西川の僧は「それが何の役に立つのか?」と問いかけてくるのでした。後年、道元禅師様はこの西川の僧とのやり取りを振り返りながら以下のことをおっしゃいました。

「古人の書物を読むことも大事だが、坐禅を徹底的に極め、その重点を明らかにし、自分の言葉で説いていくことが大切である」と―。すなわち、言葉で学んだことは頭の中だけで理解するだけでは十分とは言えず、日常生活の中で実践するなど、自分の経験を通じて、明確にしていかなければ本物にはならないというのです。

これは現代に生きる私たちにも通ずる大切なみ教えではないかと思います。私たちも若かりし頃の道元禅師様のように書物を読んで勉強したような気になることがないでしょうか・・・?大切なことは「体得」ということです。すなわち、六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・心・身体)という自分の身体全体を使って得るということです。古人の書物を読めば、知識が眼から脳に吸収されていきます。そうやって吸収されたものを身体を使ってやってみたり、心に深く刻み込んでみたり、あるいは、他人に話すことで、相手からの意見を耳で聞いたり、そうした同じ知識をあらゆる感覚器官を用いながら味わっていくと、物事を多面的に捉えることができ、より一層、深く自分の中に刻み込まれていきます。そうやって、他人の言葉や教えが自分のものになっていくのです。

仏道を行ずるということは、他人の教えを自分の中に通した上で自分のものにしていくという姿勢がなければ、本当の意味で悩める人は救えない―西川の僧はそうおっしゃいたかったのではないかという気がします。そのお言葉は阿育王寺の典座老師同様、長年、仏道を行じてきた方だからこその重みのある尊いものであり、そこには仏道修行者として、更には人間として生きていく者の基本姿勢が示されているような気がします。