第57回「少欲(しょうよく) “欲望の(うごめ)きを真理に的中させる”


汝等比丘(なんだちびく)(まさ)に知るべし。
多欲
(たよく)
の人は利を求むること多きが故に苦悩も()た多し。
少欲
(しょうよく)
の人は無求無欲(むぐむよく)なれば則ち()患無(うれいな)し、
直爾
(ただち)
少欲(しょうよく)すら()(まさ)修習(しゅじゅう)すべし、
(いか)(いわ)んや、少欲の()(もろもろ)の功徳を生ずるをや。


今回より仏遺教経は「八大人覚(はちだいにんがく)」と呼ばれる箇所に入っていきます。これは、大人(だいにん)(仏道修行を成就させた仏)が踏み行う8つの徳目(み教え)です。(詳しくはこちらをご覧ください)お釈迦様はお弟子様を通じて、後世を生きる我々に少しでも「八大人覚」のみ教えに生き、仏に近づくことを願われたのです。

そんな八大人覚のトップバッターとして、まず、お釈迦様がお示しになるのが「少欲」です。お釈迦様は少欲に対して、「多欲」という言葉も用いられていますが、両者を比較しながら読み進めていくと、よりお釈迦様のみ教えが味わい深くなってくるように思います。

「汝等比丘、当に知るべし」―お釈迦様はお弟子様方に語り掛けられます。
「多欲の人は利を求めること多きが故に苦悩も亦多し。」と。「自分の欲望を調整できないものは、自分の利益ばかりを追求するために、苦悩が尽きない。」とお釈迦様はおっしゃいます。それに対して、「少欲の人は無求無欲なれば則ち此の患無し」―「欲望の調整を心がける者は、苦悩が少ない」とお釈迦様はお示しになるのです。

お釈迦様が我々凡夫に対して、お示しになっていることの一つに「三毒煩悩の調整」があります。これは、当HPでも幾度も取り上げてきたことで、三毒(貪り・(いか)り・愚かさ)が自分の中に発生したならば、言葉や行いにして表に出さないようにしていくということでした。この三毒は誰しも有するものであり、人間が生きている限り、決して、無くすことができません。お釈迦様は「無求無欲」とおっしゃっていますが、これは、「欲望を完全に消滅させることをよしとする」ものではなく、「過度に求めることを慎むこと」を意味していることを押さえておきたいものです。

この三毒の中における“貪り”の調整というのが、「少欲」です。すなわち、「少欲」というのは欲望のコントロールを意味しているのです。お釈迦様は縁起(えんぎ)(全ての存在がつながり、関わり合っている)という真理をお悟りになりましたが、自分の欲望をコントロールすることがないままに、周囲の存在と関わっていくことは、周囲を苦しめていきます。

しかし、その半面で、欲望を完全になくすことは生きている限り、不可能であると共に、欲望の中には私たち人間が生きていく上で欠かすことのできない欲望が存在していることも否定できません。たとえば、食欲や睡眠欲といった存在です。これらを調整して、表出させないようにすることなど、不可能というよりは、決して、行ってはならないことでしょう。

では、少欲のみ教えを通じて、お釈迦様は我々に求めていらっしゃるのでしょうか。臨済宗の古老であります故・松原泰道老師(1907−2009)老師は、著書「遺教経に学ぶ 釈尊最期のみ教え」(平成15年 大法輪閣)の中で「欲望の(うごめ)きを真理(道)に的中する営みにしているかどうかが大切である」とおっしゃっています。この観点こそが、お釈迦様が我々に求めていらっしゃる「少欲」であり、「少欲」を捉えていく上で欠かすことのできない重要なポイントです。自分の中に発した欲望が周囲で関わっている存在始め、自分自身を苦悩させているようならば、「直爾に少欲を修習すべし」とあるように、真理に的中できるような欲望の発し方を目指すべきでしょう。そうすることで、「諸の功徳が生ずる」のです。つまり、周囲も自分も幸せをかみしめ、喜びに満ちた毎日を過ごせるようになっていくというのです。


以上を踏まえて捉えていくならば、私たち人間が生きていく上での課題とは、この無くすことのできない三毒煩悩といかにして関わっていくかということになります。そして、それは周囲を苦しめるような欲望ならば、“自分の中で自覚して調整し、表出させない”ことが求められるということなのです。