第55回「
不変不動
動静
定相無きが故に
戒に引き続いて示されているのが「定」です。これは、自分が周囲の様々な存在に対して、心を動かし、妄想や分別が起こらないようにすることです。「無余」とあるのは、仏遺教経第60回の中でも触れさせていただきましたが、仏の修行を極めつくし、三毒煩悩が調整できるようになることを意味しています。自分は周囲の存在の相(姿)から、眼や耳等の六根を通じて、何らかのものを感じ取りますが、それら自分が得たものに対して、自分の好みが生じて、好悪や上下の分別・差別が生じたりするような捉え方をしなくなることが「定」なのです。
そうした「定」を具体的に表現していくならば、「身心を脱落し、迷悟を捨離する」ということになります。身心が脱落するというのは、我が心と身体があらゆる束縛から解放され、自由になった状態を意味しています。坐禅中というのは、定まった体勢を持続するが故に、一見、不自由に見えますが、実はそうではありません。本当は自由そのものの状態なのです。と、申しますのは、身体を固定させ、定まった体勢を取るというのは、余計なことをする必要がなくなるため、何かに捉われることがないということです。そこが自由たる所以であり、坐禅が身心脱落の行であると説かれる理由です。それは、見方を変えて申し上げるならば、迷いだとか、悟りといった分別の境界がなくなった状態でもあります。それが「迷悟を捨離する」の意味するところです。
こうした坐禅中の微動だにせず、姿勢を正して、黙々と坐るさまが「不変不動」だとか、「兀の如く、山の如く、海の如くにして」という言葉の中で表現されています。「不為不昧」というのは、坐禅中の精神面に焦点を当てたもので、他に為すことがないがために、不昧(自分を迷わせるものもない状態)であるということです。
そうやって見ていくと、坐禅というのは、全く動きもなく、音さえもない、不動で無音・無声の行のように思えてきますが、瑩山禅師様は「動静の二相了然として生ぜず、定にして定相無し」とおっしゃるように、動きや音声のある・なしのどちらかに価値を認めるような、偏った見方をすべきものではないとお示しになっています。一見、第三者の視点から見れば、坐禅を行ずる者は、静の存在に見えますが、坐禅を行ずる当人にとってみれば、その中で仏の悟りが充満し、大きな
「定」という、お釈迦様から脈々と伝わる曹洞宗門の坐禅は、様々な要素を含んだ行であり、何か一つの言葉で表現するのも難しいほどの奥深い行だということを、今一度、理解しておきたいところです。