第3回  「原点回帰 ―三宝帰依の確認―」


(たず)ぬるに()道本円通争(どうもとえんづういか)でか修證(しゅしょう)()らん



今回より、「普勧坐禅儀」の中身を味わっていきたいと思います。まずは冒頭の一句から読みすすめていきましょう。

冒頭に「原」という文字が出てきます。「たずぬる」と読んでいることから、何かを尋ね求めることだと推測できます。「原」を使った熟語に「原点」という言葉がありますが、ここでは、“そもそも”ということで、原点に立ち返ってみるとという意味で捉えるとよろしいのかなと思います。

では、何の原点に立ち返ってみるというのでしょうか?それが次に出てくる「道本円通」です。「道本(どうもと)
これは、「道」と「本」に分かれ、「元来の道」、すなわち、「本来の道」を意味しています。仏教における本来の道とは、お釈迦様がお悟りを得られた際に行じておられた「坐禅」です。次に「円通」とありますが、これは円かに通じている様を意味しています。輪の如く、切れ目なくつながっている状態であり、どこかにまっすぐつながっている様です。

これらを総合して考えていくと、今回の一句は「お釈迦様がお示しになられた元来の仏道(坐禅)は、円通(切れ目なくつながっている道)である。」と説かれていることに気づかされます。前回、「坐禅は最初から何らかの目的を持って行うものではない。目的も期待も持ち込まない0の状態からスタートして、一歩一歩、自然と完成されていくものだ」というお話がありました。それは道元禅師様がお弟子様方に「坐禅は無所得無所悟の行いである」(正法眼蔵随聞記)とお示しになられたことにも通じるわけですが、その理由は、坐禅が「円通」だからなのです。つまり、坐禅は悟りの世界に切れ目なく、まっすぐ通じているのだから、こちらから坐禅に何か特別な期待感を持ったり、先を計算して頭を悩ませたりする必要もないというのです。坐禅は必ず安楽の世界へと導いてくれるのだから、私たちの方から余計なことを考えずに、坐禅に歩み寄っていく―そうした坐禅に「帰依」しながら、仏道の原点に立ち返ってみようと「普勧坐禅儀」の冒頭は訴えるのです。

だから、「(いかで)修證(しゅしょう)()らん」と道元禅師様はおっしゃるのです。
修證(しゅしょう)」とは「修証義(しゅしょうぎ)」の 「修證」です。修行をして、悟りを得ること。そのことについても、何か期待して修行に取り組まなくとも、お釈迦様とそのみ教えに我が身を委ねていれば、必ずや誰もが悟りの世界に到達できると道元禅師様はおっしゃいます。そして、それは自らのご修行で、今日まで仏道を伝えておられた多くの祖師方からも証明されているのです。

仏教の基本は仏(お釈迦様)・法(お釈迦様のみ教え)・僧(お釈迦様のみ教えを伝えてきた人々)の三宝に帰依する(信仰する)ことですが、坐禅を体験する前に、今一度、今回の一句を味わい、自らの三宝帰依を確認しながら、坐りたいものです。そうすれば、次第に祖師方が味わってこられた坐禅のすばらしさや悟りの境地を味わうことができるようになるのです。