第11回「摂律儀戒(しょうりつぎかい) ―“諸仏法律の窟宅(すまい)”に身を投じて−

三聚浄戒(さんじゅじょうかい)有り。
摂律儀戒(しょうりつぎかい)。諸仏法律を窟宅(すまい)とする所なり。諸仏法律の根源(もと)とする所なり。

「三聚浄戒」に関しては、以前、修証義第3章のコーナーでも触れさせていただいたことがあります(詳しくはこちらをご覧ください)。今回示されている「摂律儀戒」の他に、「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」、「摂衆生戒(しょうじょうかい)」があり、教授戒文でも、この後、それぞれ詳細に説き示されていきます。

仏教の開祖であるお釈迦様(仏)は、「止悪(しあく)(悪いことをしない)・修善(しゅぜん)(よいことをする)・済度(さいど)(他者の存在に気を配り、救いの手を差し伸べること)」を我々に願っていらっしゃいます。そうした願いを持った仏によって示されたのが、「法(仏のみ教え)」です。そして、そんな法に和して、法を自らの生き方として、日常を過ごしてきた方々が、「僧」です。ということは、「三聚浄戒」は法そのものであり、我々が仏法僧の三宝に帰依するならば、必ずや護持していくべき生き方でもあると言えるのです。

そんな「三聚浄戒」の中の、「摂律儀戒」について、今回は教授戒文の観点から味わってみたいと思います。ポイントは、修証義には示されていない「諸仏法律を窟宅とする所なり。諸仏法律の根源とする所なり」です。

「摂律儀戒」は「止悪」という、一切の悪を悉く断じる戒ということです。この中の「律儀」という言葉には、「身・口・意の過非を防ぎ、六根(ろっこん)(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄に護る」という意味があります。すなわち、私たちの六根を清浄に保つことによって、自分の中に生じた悪しき心を言葉や行いにして表出させないようにしていくことが「止悪」たる「摂律儀戒」であるということなのです。ということは、「摂律儀戒」を心がけて過ごすということは、自ずと「三毒煩悩を断つ」ことにつながっていくことに気づかされるのです。自分の中に知らず知らずのうちに発生した“貪り・(いか)り・愚かさ”に気づき、言葉や行いにして表に出さないようにしていくことによって、私たちは過非を防止できるのです。

そうした私たちが過非を防止していく上での参考書のような存在が「諸仏法律」です。これはお釈迦様がお示しになった八万四千とも言われる膨大な仏法です。「律」という言葉は、法律という言葉もありますように、掟や手本を意味しますが、仏教の世界においては、出家修行者が日常生活における掟・手本を指します。「摂律儀戒」が、そうしたお釈迦様が発し、多くの祖師方(僧)によって、実践され、今日まで受け継がれてきた法なり律が存在する家であり、その根源たる役目を持った存在であることを説いているのが、「諸仏法律を窟宅とする所なり。諸仏法律を根源とする所なり」なのです。そんな窟宅は、苦悩する人々に必ず救いの手を差し伸べてくださると共に、どうやって日々を過ごしていけばいいかを指し示してくださっています。だからこそ、我々は信頼を寄せ、安心して身を投じる(帰依する)ことができるのです。

そうした“諸仏法律の窟宅”に我が身を投じ、三毒煩悩を調整しながら、止悪の日常を目指していきたいものです。そうすることで、私たちは仏に近づき、よき人間へと成長していけるのです。