第60回「坐禅と向き合う上で ―大切な心構え−

心意識(しんいしき)放捨(ほうしゃ)し、念想観(ねんそうかん)休息(きゅうそく)して作仏(さぶつ)(はか)ること(なか)れ、
是非を(かん)ずること勿れ、光陰(こういん)護惜(ごしゃく)して、頭然(ずねん)を救ふが如くすべし。


瑩山禅師様は坐禅の環境や条件について触れていらっしゃいますが、今回は「坐禅中における思考」についてのお示しです。同様のことが道元禅師様も「普勧坐禅儀」の中でお示しになっていらっしゃいます(詳しくはこちらをご覧ください)。今回もお釈迦様の坐禅が道元様に相承(そうじょう)され、さらに瑩山様にもそっくりそのまま伝わっていることを見逃してはなりません。これは別の観点から申し上げるならば、坐禅の世界に個人の狭い了見や視点を入れる必要もなければ、そのこと自体がバカバカしいことでもあるということです。

「心意識の放捨(道元様は“心意識の運転”とおっしゃっている)」や「念想観の休息(道元様は“念想観の測量”とおっしゃっている)」というのは、頭の中に沸き起こる様々な考えに捉われるがあまり、調心・調身・調息といったことに対する意識を欠く様を言い表しています。今年の7月にご遷化(せんげ)になった板橋興宗禅師様が以前、「人間というのは、生きている間は、坐禅中であれ何であれ、考える生き物であり、思考がストップするのは死んだときだ」とお示しになって、「心意識を放捨すること」や「念想観を休息する」というのが、どういうことなのかを的確にお示しくださいました。生きている限り、思考を停止させることは不可能であることを念頭に置いた上で、頭の中に生じた考えに対しては、そこに留まることなく、払い去って捉われないようにすればいいのです。そして、それが「頭然を救う」ということなのです。誰しも頭の上に火の粉が降りかかれば、熱さの余り、即座に振り払いますが、それと同じように、頭の中に生じた思考に対して、あれこれ悩み続けるようなことをせずに、振り払って、仏道修行に専念することが「頭然を救う(救頭然)」ということなのです。

次に「作仏を図る(図作仏(ずさぶつ))」についてですが、これは「仏に成ろう」というように、何か自分によいことが起こるのを期待して坐禅に臨むことを意味しています。当然ながら、これも坐禅に向き合う心構えではありません。道元禅師様が「無所得無所悟の坐禅」とおっしゃるように、坐禅そのものが仏のみ教えに満ちた尊い行いであると共に、坐禅をすること自体が仏の行いであり、仏に成ることなのです。そんな坐禅に何を必要以上のことを期待し、見返りを求める必要があるのでしょうか。「図作仏」の必要などないばかりか、「是非を管ずる」といった、坐禅の是非を論ずることも無用の行いなのです。

そんなことに限られた貴重な時間を要するのではなく、「光陰を護借する(時間を大切にする)」ことを意識しながら、あれこれ理屈を言わず、「図作仏」することなく、「救頭然」を意識して、坐禅に身を投じ、悟りを得た仏様の真似をしていればいいのです。そうすれば、自然と仏に近づき、よき人間となっていくのです。

現代社会は「是非を管ずる」と言わんばかりの発言や言動が目立ち、図作仏と言わんばかりに、自分に見返りを求めながら日々を過ごす場面を多々見受けますが、その典型的とでも言うべき方が、あるとき坐禅会に参加したところ、心が引き締まったとおっしゃっいました。一度や二度の坐禅で、すぐに何かが変わるわけではありませんが、そんな坐禅を地道に続けていくことに、大きな意味があるような気がします。もちろん、坐禅に意味を求めることは「図作仏」ですので、最初からそういう姿勢で坐禅をしても、お釈迦様から伝わる坐禅の真意にたどり着くことは難しいでしょうが、「是非を管する」ことに時間を割きがちな我々現代人だからこそ、是非を管することを否定する坐禅を行じ続けることによって、新たな発見があり、自分という存在が大きく成長していけるような気がします。一見、異彩な面を秘めた坐禅を日々の生活場面の一部として取り入れてみることを、是非、おススメします。