第22回 「道元禅師様の坐禅観―“坐禅は習禅に非ず、安楽の法門なり”―」
所謂坐禅は習禅には非ず、唯是安楽の法門なり
「正法眼蔵隋聞記」は、道元禅師様が修行者たちに折に触れてお示しになられたことを、弟子の弧雲懐弉禅師様が筆録された祖録です。これを紐解いてみますと、「無所得無所悟」という言葉が登場します。これは道元禅師様の坐禅観を示すみ教えの一つで、坐禅を行うに当たり、たとえば、人間性が磨かれるとか、集中力を高めていきたいといった、何か自分にいいことが起こるのを期待して坐禅に臨んでも、そんな期待は空しく裏切られるだけであるということを説いています。
このことは、実際に坐禅を“やって、やって、やり続けていく”うちに合点がいきます。そして、それは坐禅に限らず、万事に通ずることにも気づかされます。何事も自分の思い通りにはいかないものです。やる前から抱いていた淡い期待など、厳しい現実の壁を前に、簡単に裏切られてしまうという経験は、誰しもあるのではないでしょうか。そのことを道元禅師様は坐禅を通じて、お伝えしたかったのではないだろうか?―「無所得無所悟の坐禅」という言葉に巡り合うたびに感じるのです。
そうした「坐禅はやる前から、是非等をあれこれ議論するものではない。坐りながら様々な発見がある。そして、気づけば、安楽の地にいる」というのが、「坐禅は習禅に非ず、唯是安楽の法門なり」の意味するところです。この一句は「普勧坐禅儀」の中でも著名な代表的一句であり、「無所得無所悟」同様に、道元禅師様の坐禅観が端的に示された名句ではないかと思います。ちなみに「習禅」とは、坐禅の方法を習って体得することです。前回、作法の習得ばかりを説く坐禅指導のお話をさせていただきましたが、これぞ「習禅」の典型なのかもしれません。そんな「習禅」を道元禅師様は否定していらっしゃることを、ここで押さえておきたいものです。
もう一点押さえておきたいのは、お釈迦様始め道元禅師様や歴代の祖師方が修行し、今日までそっくりそのまま受け継いでこられた坐禅というのが、「安楽の法門」であったということです。姿勢・心・呼吸の三者を調え、やって、やって、やり続づける中で、気づけば安楽の世界に我が身があったのです。そして、そうした日常のご修行の力が、多くの悩める人々の救済にもつながっていったように思います。こうした「安楽の法門」たる坐禅は、無限の可能性を秘めていることを改めて感じるのです。