第12回「摂善法戒(しょうぜんぼうかい) −仏道における善と悪−

摂善法戒(しょうぜんぼうかい)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の法、能行所行(のうぎょうしょぎょう)の道なり。


三聚浄戒(さんじゅじょうかい)(詳細はこちら)の一つである「摂善法戒」について、今回は「三藐三菩提の法、能行所行の道なり」という箇所に焦点を当てて味わってみたいと思います。

そもそも摂善法戒は“修善”と呼ばれるように、“善なることを行う”ことを意味しています。ところが、この善といい、前回の「摂律儀戒」に示される悪といい、世間一般には何を以て善とし、悪とするか、その判断基準が難しいのです。この点について、道元禅師様も「正法眼蔵・諸悪莫作(しょあくまくさ)」において、「善悪は時なり、時は善悪にあらず(時代によって、または、場所によって善悪は絶えず変化するものである)」とおっしゃっています。善と悪は時代や地域によって変化し、一定でないことが判断を難しくしているのです。

そうした世間における善悪の基準に対して、仏法の世界における善悪の基準は一つです。それは「仏法僧の三宝に帰依しているかどうか」です。すなわち、自分自身が三宝と「和す」姿勢があるかどうか、そして、そうすることによって、法に従った言動を提示できているかどうか、それが仏法の世界における“善”であり、“正しき行い”なのです。自分が三宝に帰依し、三宝に和そうとして、仏の道を歩んでいくとき、次第に自分が発する言動が「三藐三菩提の法」という仏のお悟りの境地に近づき、善なるもの、正しきものになっていくのです。

ここで、「和す」ということについて触れておきたいことがあります。「和合」という言葉があります。この言葉は仏法の世界のみならず、世間にも存在しています。「和合」は簡単に申し上げるならば、「仲良くすること」ですが、注意しなければならないのは、“仲良くすること=相手に媚びることではない”ということです。相手の気分を害さないようにと、言いたいことがあっても、半ば強引に自分の中に押し込んで、相手の機嫌を取るような関わり方をしているような人間関係を見ることがありますが、「和す」というのは、純粋正直な気持ちを以て、安心した状態で、お互いに我が身を委ね合うことに他なりません。自分を偽り、嘘を以て周囲と仲良くしようと振る舞うのは、「和す」とは言えないことを押さえておきたいものです。

日常生活を送る中で、三宝と巡り合い、三藐三菩提の法によって、次第に自分の言動が善なるものへと変化していく能動的な行いが「能行」であるならば、他者の存在によって、三宝とのご縁ができ、その力によって、自らが変化していく受動的な行いが「所行」です。それはどちらであっても問題はありません。どちらの場合であっても、自ら三宝に帰依し、三宝に和すことによって、善なる言動を発し、仏へと近づいていくことが「摂善法戒」という生き方です。日常生活の中で、一日も早く仏法僧の三宝とご縁を結び、帰依できるようになりたいものです。